課金推しするってこと自体への文句はありません…けれども。そもそも『課金』って、なに?ってことからするとガチャはギャンブルだし、それは"課金"運営って謳うことと違うかなあ、と。まさかギャンブル運営でないと立ち行かない状況?(*´・ω・`)…マサカ
もはや通常の課金だけでは本編を続けることが出来ない=運営が立ち行かないっていうのは既に運営破綻してると言ってるのと同じことじゃ?
DQはヒット作のシリーズ化で、代々そのビッグネームで売れてきたとする部分はあったのでしょうが、運営継続の為に課金が足りないって=ゲーム本編の魅力作りに失敗したと言ってるも同じに聞こえる…。
だったら思いきって変えましょうよと、改修賛成したわけですが。
課金に関しては流されず個人的な見解として、『課金外のお金の投入は基本必要ない』というスタンスから話します。(課金はほどほどを『楽しむため』にするなら良いんですが…)
提案にもそれとなく仄めかして書きましたが、
『交換するに相応しい』とその価値を認めるものへ対して課金するのは当然と思います。
手にするお金は、誰にとってもとても大事なもの。言って見ればお金は『物との交換を確実にするために必要なもの』です。言わばお金は『確実性のあるもの』として存在する。
その大事なお金をわざわざ『不確実性なものに換える必要』はあるのか?という根本的な問題と絡めて話してみた場合、もっと違ったゲーム開発のアプローチはあるのではないかと。
もっと言ってしまえば、社会の中で人が生きるためにはお金が必要です。だから、そのお金を手にするのも、実際的に社会に住む人全体に必要な権利。だからお金は保証でもあります。
もし『全体に行き渡らせるに十分なお金』があるのにも関わらず、それを敢えて『不確実性のプール』の中に一旦投げ入れて、洗濯機のように渦巻いてるお金を"全員で一斉に手を突っ込んで"つかみどりしろと言われたらどう思います?
何故そんなバカなことをする必要があるかとみんな怒るはずでしょ?
そもそも皆が十分なお金を手にすることができなければ社会はまともに動かない。じゃあ何の為に、誰のために社会を作ったんだ?ってことになる。
『社会運営にお金が必要』なのではなくて、社会運営の為にまず、社会全体の人の活力が必要なんだよね?
優先的順番がおかしいんですって。
お金が人に活力を与えてくれるものなら、じゃあ何より先に『人に活力を与えなければ社会もダメになる』ってことくらい誰でも解る。逆にこれがわからない人は誰に何を教えられてきたの?ってことになる。
遊びを提供する側に何の遊びもなくなったらそこに描かれることの本質は洗脳教育と同じでしょう。何処かで見たような物しか作れなくなる。
つづく~