春でも秋でもない、ただ夜が長いだけの季節だった。
少女はまた書いていた。
昨日と同じ部屋で、昨日と同じ椅子に座って、昨日とほとんど同じ文章を、少しだけ違う順番で並べ直していた。
うまくなっているのか、わからない。
ただ、下手なりの輪郭が、以前よりはっきりしてきた気はした。
自分の文章の匂いというか、癖というか、どうしても拭えない体温のようなもの。
それが恥ずかしくもあり、捨てられなくもあった。
あの夜から、少女はタイトルをつけるようになっていた。
完璧じゃなくていい、と思うことにした。
「まだない」のままで送り出したあの作品が、ほんの少しだけ、誰かの夜に触れたから。
それだけで、十分だと思った。
十分だと思った瞬間に、また足りなくなったけれど
あるとき、投稿サイトに見知らぬ名前からメッセージが届いた。
「読みました。うまくはないけど、なぜか離れられませんでした」
うまくはないけど。
普通なら傷つく言葉かもしれなかった。
でも少女は、その一行を三回読んで、それから静かに笑った。
そうだよ、と思った。
うまくないんだよ、私は。
それでも離れられなかったんでしょう。
だったらそれは、もう文学じゃないか。
才能の話をするとき、人はいつも結果を持ち出す。
読まれた数、感想の数、賞の名前。
でも少女はその夜、はじめて思った。
才能って、もしかして、やめられないことなんじゃないか。
うまくなくても、報われなくても、誰にも気づかれなくても、それでも書いてしまう。
書かないと眠れない、書いた後だけ少しだけ自分が自分になれる、そういう体質のことを、才能と呼ぶのかもしれない。
だとしたら、少女にはあった。
ずっと、最初から。
夢を追うというのは、もっと眩しいことだと思っていた
決意の朝とか、溢れる涙とか、走り出す足音とか。
でも実際は、こんなものだった。
疲れた夜に、それでもファイルを開く。
不格好なタイトルを、それでも入力する。
送信ボタンを、それでも押す。
覚悟というのは、たぶん一度決めるものじゃない。
毎晩、少しずつ、また決め直すものだ。
昨日の自分が決めたことを、今日の自分がもう一度選び直す。
その繰り返しだけが、道になる。
少女はそれを、華々しいとは思わなかった。
ただ、それでいいと思った。
地味で、孤独で、誰にも見えなくて、それでいい。
今夜も、新しいファイルを開いた。
カーソルが点滅している。
タイトルの欄が、空白のまま待っている。
少し前の自分なら、ここで止まった。
ふさわしい言葉が見つかるまで、名前を与える勇気が出るまで、ずっと「無題」のままにしておいた。
でも今夜は、思った。
タイトルをつけようか。
完璧じゃなくていい。
どうせ明日、もっといい言葉が見つかるかもしれない
それでも今夜の自分が選んだ言葉を、今夜の自分が信じてみる。
それだけでいい。
それだけのことが、ずっとできなかったから。
少女は、キーボードを打ち始めた。
誰かに読まれなくても、文字は存在する。
誰かに届いてしまえば、文字は体温になる。
そしてたぶん、自分が信じて名前をつけてやれば、 文字はようやく、生きはじめる。
だから、タイトルをつけよう。
まだ見ぬ誰かのためでも、
たった一人の自分のためでも。
書き続ける理由なんて、そのくらいで十分だ。
静かな部屋で、少女はまた一つ、物語を生かした。