むかーしむかし、蛍の森には、不思議な噂があった
夏の夜、森の奥へ迷い込むと、カッパに出会うことがあるらしい。
でも、そのカッパは人を驚かせたりしない。
きゅうりを欲しがることもない。
ただ、困っている誰かを見つけると、そっと手を差し伸べてくれるのだという。
そんな噂を、森の精霊であるセレスは信じていなかった。
だって、精霊たちは何百年もこの森に住んでいるのに
誰も本当に見たことがないと言うのだから。
「ただのおとぎ話だよ」
花びらの羽を揺らしながら、セレスは笑っていた。
けれど、その夜。
彼女は森の中で迷ってしまった。
いつも飛んでいる場所なのに、蛍の光が多すぎて方向がわからなくなったのだ。
右を向いても木。
左を向いても木。
上を見ても、枝葉が空を隠している。
「どうしよう……」
気がつけば、辺りはすっかり暗くなっていた。
蛍たちの光だけが、星のように漂っている。
セレスは小さく肩を落とした。
その時だった。
「大丈夫?」
聞き慣れない声がした。
振り向くと、そこには小さなカッパが立っていた。
緑色の着物。
大きなリボン。
にこにこと笑う顔。
想像していたよりずっと優しそうだった。
「カ、カッパ!?」
「うん。よく驚かれる」
カッパは少しだけ照れくさそうに笑った。
「迷ったの?」
「……うん」
「じゃあ、一緒に出口を探そうか」
あまりにも自然に言うので、セレスは目をぱちぱちさせた。
「いいの?」
「もちろん」
カッパはそう言って歩き出した。
セレスも後ろをついていく。
しばらく歩くうちに、緊張は少しずつ消えていった
カッパは森のことをよく知っていた。
どの木にフクロウが住んでいるか。
どの池に月が綺麗に映るか。
どの花が夜だけ咲くか。
話を聞いているだけで楽しかった。
けれど歩き続けるうちに、セレスのお腹がぐう、と鳴った。
途端に顔が熱くなる。
「ご、ごめん……」
カッパは少し考えてから、ぱっと笑った。
「じゃあ休憩だね」
そう言って取り出したのは、小さな箱だった。

「なにそれ?」
「秘密」
箱を開ける。
中から現れたのは、白くて丸いアイスだった。
月みたいな形をしている。
「アイス!?」
「食べる?」
「いいの!?」
「そのために持ってきたから」
セレスは遠慮しながら受け取った。
一口かじる。
冷たい。
そして、とても甘い。
花の蜜を凍らせたみたいな優しい味だった。
「おいしい……!」
思わず声が漏れる。
カッパは嬉しそうに笑った。
「よかった」
二人は並んで座りながらアイスを食べた。
蛍が周りを飛んでいる。
森は静かだった。
けれど、その静けさは寂しくなかった。
誰かと一緒にいる夜の静けさだった。
「ねえ」
セレスが言った。
「なんでカッパはそんなに優しいの?」
カッパは少し考えた。
そして空を見上げた。
「昔ね、ぼくも迷子になったことがあるんだ」
「え?」
「小さい頃」
蛍の光が瞳に映る。
「その時、誰かが助けてくれたんだよ」
「誰が?」
「知らない」
カッパは笑った。
「顔も覚えてない。でも、その人のおかげで帰れた」
セレスは黙って聞いていた。
「だから今度は、ぼくが誰かを助ける番かなって」
それはとても単純な理由だった。
けれど、とても素敵な理由だとセレスは思った。
やがてアイスを食べ終わる頃、森の出口が見えてきた
「あっ!」
見慣れた景色だった。
セレスは思わず駆け出す。
そして振り返った。
「ありがとう!」
カッパは手を振った。
「気をつけて帰るんだよ」
「うん!」
セレスは大きく頷いた。
その時、ふと思いつく。
花の冠から一輪だけ花を外して、カッパへ差し出した
「お礼!」
「ぼくに?」
「うん!」
カッパは驚いた顔をした後、とても嬉しそうに受け取った。
「大事にする」
その笑顔は、蛍の光よりも温かかった。
それからというもの。
蛍の森では時々、不思議な噂が聞こえるようになった
迷子になると、優しいカッパが現れる。
そして冷たくて甘いアイスをくれるのだと。
その話を聞いた精霊たちはみんな笑う。
「そんな都合のいい話があるわけない」
けれどセレスだけは知っている。
その噂が本当だということを。
今日もきっと、蛍の森のどこかで。
緑の着物を着たカッパが、誰かのためにアイスを抱えて歩いている。