80年代の到来を軽やかに告げたのが佐野元春の「アンジェリーナ」なら、
バブルが崩壊の兆しをみせ、社会が価値観の転換を迫られた90年代初頭。
時代の寵児となったのは小沢健二、小山田圭吾の二人からなるユニット、
フリッパーズ・ギターだろう。我々世代の青春期には外せないポップアイコンである。
それまでの、どんな反体制きどりのロックバンドよりも、彼らははるかに洗練された手法で、
世間にツバを吐きかけてみせた。今回紹介する名曲「カメラ!カメラ!カメラ!」が
おさめられた名盤「カメラ・トーク」は、いつだったか金に困って売ってしまった。
残酷なものである。青春にはいつか必ず終わりがくるのだ。
初夏の輝きを濃縮したかのようなメロディーに乗せ、モチーフとして語られるのはカメラ。
カメラといえば写真を撮る機械だ。写真とは五月の光にも似て、どこか物哀しいものである。
カメラを向けられ、「ハイチーズ」と言われたなら、その時の心境はどうあれ、
とりもなおさず人は笑顔を向けるだろう。その瞬間を切り取った一枚から、
笑顔の下にある本当の気持ちを読み取ることは、よほど想像力が豊かでないとむずかしい。
そして後々に残るのは、唯物的な写真だけである。心は過去に押し流されてしまう。
当の本人ですら忘却の彼方なので、アルバムをめくれば、
「あれ、いい笑顔してるな。この頃の私って幸せだったのかな」
と哀しい思い違いをしてしまう。
それでも我々は、カメラ片手に写真を次から次へと撮り、冬の食料をたくわえるリスのように
生きていくしかない。写真がごく一瞬を焼きつけたものであると同様、このゲームにおける
我々のキャラクターもしょせんは刹那の存在である。サービスが終了する数年後、
十数年後には今の人間関係などついえてしまうだろう。その先もつきあいが続く人など、
ただの一人もいないと断言できる。哀しいけれど、だからこそ美しいともいえる。
「もう一歩踏み込んだところで、この人ともっと深く話をしたい」と望む人なら何人かいる。
しかしもう一人の自分が待ったをかける。おいおい、ゲームの中だけの関係だろう?
それだけの関係なら、その人にまつわる情報も一切意味がない。
データだけは半永久的に残るだろうから、結局のところ我々は、
「このアストルティアで何を成したか、それがすべて」なのだ。
中の人が男だろうが女だろうが、キッズだろうが中年だろうが、一流商社につとめる
エリートビジネスマンだろうが無職だろうが、富める者も貧しき者も、容姿の美醜も、
ここでは一切関係ないのだ。そこを変に持ち出しても言い訳にもならないのだ。
(じゃあリアルマネーを持ち込めるRMTはどうなんだって話になるが、
わざわざリスクを冒してまでそこまでするのもある種の人間力だと思うので、
私はとくに肯定も否定もしない、というスタンスである)
歌詞中にある、「どうせ僕らはイカサマなカードで逃げ回る」とは、
運営のやり口に不信感を抱きつつも、結局はおどらされている我々の姿と
どこかシンクロしている。「カメラの中3秒間だけ僕らは突然恋をする」、
時限つきの恋。すべてのはじまりは、すべての終わりに続いていることを
悟っているようである。「本当のこと 何も言わないで別れた」、
そう我々は、「なにひとつわかりあえなかった」という空しさを抱いたまま、
終わりの時を迎えるしかないのだ。作り笑いの写真でうめつくされた、
アルバムにせめてもの慰みを見出しながら。やがて訪れる冬を過ごすのだ。
凡百のラブソングが、「いつまでも君を愛してる」などといった調子のいい、
かつ根拠もない文句を並べ立てる中で、「終わり」を歌ったこの
「カメラ!カメラ!カメラ!」は古びることのない輝きを今も放っている。
写真でさえいつかは色褪せるというのに。