流行り歌などでは、「共感」というファクターが偏重される。
本でも映画でも、共感を通じて「泣ける内容」であるか、このへんが宣伝文句になる。
しかし私は思う。生い立ちからなにから違う人間が、「共感」しあうことなど、
しょせんは絵空事、夢物語ではないのか。うわべだけの共感は、そこからずれを生む。
お互いがお互いをわかったつもりでいると、男女間においてはさまざまな悲劇を引き起こす。
まったくの独白のつもりで書いた歌が、結果的に共感ソングとしてまかり通っている
例もあるだろうし、100パーセント共感をめざして書かれたのなら、
それは売れ線狙いでしかないただのゴミだろう。歌を色紙とするならば、
歌詞は色紙に綴られた、気の利いた寄せ書きのようなものであるべきだ、
と私は考えている。受け取った人は、寄せ書きに触発され、余白に自分なりの
想いを書き込む。「共感」とやらが根付いた一貫性は、そこにはなくてもいい。
何かを伝える手段として歌は、あまりに言葉数が少なく、また誤読を生みやすい。
その昔、高田渡が「自衛隊に入ろう」という皮肉全開ソングを世に出したところ、
歌詞の内容を真に受けた防衛庁から、入隊式で歌ってくれないかと頼まれたという、
笑えるような、笑えないような話もある。こうなると共感どころではない。
はっきりくっきり伝えたいならば、論旨を明確にしたエッセイか論文でも書けばいい。
それでも小保方さんのように、吊るし上げをくう時はくう。悲劇は常について回る。
(私は彼女に “女子力発電所” というあだ名をつけています)
共感とはなんぞや、というのは私のツイッターでも、もっとも慎重かつ細心に、
取り扱ってきたテーマである。歌よりさらに、言葉数のすくないツイートを、
「わかるわかるー」なんて評されると、根がひねくれているものだから、
「てやんでェ、何がわかるってんだよ」と毒づきたくなる。私のツイートは、
あくまで個人的体験に基づく個人的感情から派生したものだからだ。
「ここは、もっとこういう風に書けばたくさんの人にお気に入りに入れてもらえるし、
リツイートもされるんじゃないかな」と思うことはある。それでも、あえて、
ぼかしたり回りくどい書き方をする。はなから共感なぞめざしてないからだ。
私と同系統のツイッターユーザーは、いかにも女の子が聞きたがってるような、
「耳に心地よい言葉」を使って人気を博していたりする。JーPOPかよと思う。
何万人、十何万人とフォロアーがいる。対して私は最盛期でも三千人ほど。
だからといって、言葉の価値の差だとも思っていない。私のツイートを
追いかけてくれる人たちは、そこに共感以外の「何か」を感じ取っている、
そういう手ごたえがあるからだ。ドラクエの世界においても基本姿勢は同じである。
(続く)