私は有名人でもなければ、アストルティアにおけるカリスマ的存在でもない。
そういうのに、とくになりたいわけでもない。広範に訴えかける性質の言葉は
持ち合わせないので、「そう思う/思わない」で数値的な価値基準のカゴに
おとしこまれてしまう提案広場への書き込み、というやり方を私は選ばない。
ひっそりと孤島のようなマイページで思いの丈を綴る。自分の足跡を振り返るのも、
「俺SUGEEEEE」したいというよりは、覚え書きであったり、過去を総決算して
新しい一歩をふみだすための決意表明、自覚をうながす手段であったりする。
「これからは○○!」と押しつけがましく迫るよりも、昔風のちょっとキザな
言い方をするなら、「一緒に新しい風を感じてみないか!?」というスタンス。
それが伝播して、ムーブメントにまで結びつくか否かは結果に過ぎない。
縁あって、たまたま通りがかった人が何かを感じてくれればいい。それは共感はおろか、
同感、同意である必要すらない。反発めいた感情が生まれたとしても、
それはそれでひとつの化学反応であり、文章を書いた意義というものである。
80年代の佐野元春、90年代のフリッパーズ、00年代のプライマルときて、
極私的ロック年表の〆を飾る、現在進行形で熱を放っているバンドは、となると
凛として時雨以外に思い浮かばない。「想像のSecurity」をぜひ聴いてもらいたい。
ttps://www.youtube.com/watch?v=UG4wQsDxgbk
この世界のありかたを示唆する、「Imagination fiction game」というキーワード。
ここにあるのは共感からはほど遠い、「君」との距離も取りあぐねているような、
自閉し、内向した言葉だ。にもかかわらず、彼らは多くのロック青少年を
(あるいは私のような中年を)熱狂させてやまない。
共感的な言葉を用いずとも、音叉が響き合うように私たちは「共鳴」しあえるし、
破壊的なギターリフとともに表現される痛みは「共有」することができる。
セクシ @sekussi 2012年5月21日
共感ってなんだ。「わかるわかるー」って、何がわかるというんだ。何一つ残さない、あぶくみたいに消え去ってしまうものより、僕は君と「共有」したい。一瞬を切り取って、切れ端を君の胸にそっと忍ばせたい。文字が薄れて読めなくなってしまっても、誰が残したものかさえ、君は忘れ去ってしまっても。