ここでいきなり麻雀の話になる。麻雀の腕を分けるものは一体なんだろうか。
よく知らない人は、「えー?ヒキが強いとかじゃない?」と思うかもしれない。
たとえば将棋で、(このほど復位なさった)羽生名人に私が挑んでも、
百局やって一局も勝てないに決まっているが、これが麻雀だと、
まあまあ私がプロに勝っちゃうこともあるだろう。微妙に運も絡んでくる、
麻雀というゲームの特質である。しかしこれも、何十戦、何百戦という長いスパンで
やるとするなら、プロとの実力差は如実にあらわれてくるはずである。
ではプロはわれわれ素人と何がちがうのか。ここで90年代麻雀漫画の金字塔、
「ノーマーク爆牌党」の中から、とあるベテラン雀士と記者の一問一答を紹介したい。
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雀士「(前略)なぜなら麻雀にはツキも流れも存在しないんだね」
記者「ええー!?」
雀士「何を驚いてる?」
記者「驚きますよ。だって私たちの麻雀にはツカ〜〜ンとか流れが変わったとか
いうことが実際にありますもん」
雀士「それは打ち手の思い込みなんだよ。実際にあるのは関連性のない偶然が、
積み重なった現象だ。それが結果としてツキや流れに見えるだけなんだ。
例えばルーレットで赤が5回続けて出たとしよう。次に君はどっちに賭ける?
もちろん知っての通り確率は1/2だ。大事なことはいくら赤が連続して出ようと
次に赤が出る確率は1/2。この数値は絶対に変わらん。微妙にずれて、
1/2より多くなったり少なくなったりはしないだろ」
記者「はあ……今の問題ですが、やっぱり黒に賭けるかな?」
雀士「よろしい、じゃあその結果赤が出たとしよう。その時キミはどう思う?」
記者「やっぱりまだ赤に勢いがあったかと……」
雀士「うん。じゃあ結果、黒が出て当たった時はどう思う?」
記者「やっぱりそろそろ流れの変わり目だったかと……あ!」
雀士「わかったかね。ツキや流れまたは勢いというものは結果に口実を
あたえているだけのものなんだよ。人の弱い心の産物さ」
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注釈をつけるなら、この意見はそのまんま、作者である片山まさゆき氏の
意見というわけではない。氏自身はもうちょっとオカルト寄りの雀風である。
(自分の意見をなまじ聖域化せず、登場人物に相対化をはかるようなセリフを
言わせるのが氏の作家としてすぐれた点といえる)
このベテラン雀士は、主人公たちとの実戦においてこうも語っている。
「私にはツキという意味がよくわからない。(中略)ただ、その偶然の結果を
待ちかまえるこちらの手牌。これには意志を加えることができる。
どういう意志を加えるかが打ち手の腕の部分だと思うんだが、どうだろう?」
頷けるセリフである。とどのつまり、麻雀において最終的に勝負をわけるのは、
流れ(のように見えるもの)に左右されず、ダボハゼみたいに鳴いて好配牌を
安手で終わらせず、他家を突き放す高い手を和了るんだ、という意志の力である。
耐えるべきところは耐えしのぎ、いかに大輪の花を咲かせるか。
チョーカー作成に置き換えれば、100体前後でリーチをかけたというのは
ツキの部分もあったかもしれない。しかしそこからは意志であったと思う。
ここまできて安手で倒せるか、そんな意地も働いたといえる。
攻撃力オール5の理論値チョーカーができたのは、通算321匹目。
ストックはもちろん、ひとかけらの破片も残さずきれいに卒業できた。
その時の感覚は、ちょっと今までに味わったようなものではなかった。
なんというか……スルリと弾幕をすり抜けたような感じだった。
いまだあえいでいる人からすれば、そんなのは理論値をつくった人間が、
結果論として言えることだ、そんな風に思われるかもしれない。
そのへんは各々の受け取り方しだいだし、「がんばればいつかはできるよ」
だなんてどこか見下ろしたような、無責任なことを言えるはずもない。
しかしオカルトに走らず、シンプルに期待値を積み重ねるやり方を、
意志の力でもってすれば、それはチョーカーでなくとも、
必ずやどこかで花開くのではないかと思うのである。