「一平二太郎」が大人の男のたしなみである、と言った評論家がいる。
ここでいう一平二太郎とは、歴史小説の大家、藤沢周平、池波正太郎、
司馬遼太郎のことである。この中で私がもっぱら愛読するのは、
藤沢周平氏の小説群だ。これは個人的趣味、好き嫌いの範疇だろうが、
歴史上の巨人を多く扱う司馬作品は、経営者、管理職などといった人たちの
心には訴えかけるのかもしれないが、どうも私はなじめない。
池波正太郎は、エッセイなどはいかにも江戸っ子らしい、
軽妙洒脱な味があっていいのだが、小説となると手にとって、
読みふけろうという気にまでは至らない。
藤沢作品の何が、一線を画してるのかというと、
下級藩士、市井の浪人といった、歴史に名を残すような存在ではない、
そういう人物像にまつわる物語を丹念につむいでいる点だ。
それが社会的には底辺である私からしても感情移入しやすいのだ。
何より、文章力は 藤沢>>>>>>>>池波、司馬 これは間違いない(笑)。
藤沢周平の文章は、キリリと引き締まった端正な味わいの、辛口の日本酒を思わせる。
〆張鶴、越乃寒梅といったあたりだろうか……。いい酒の味を覚えると、
他の酒を飲むのがつらくなるのである。私の文章は骨格的な部分で藤沢氏の影響を受け、
そこに村上春樹的なスパイスをふりかけてみました、という感じである。
さて、なんでこういう話を持ち出したかというと、近年のドラクエの主人公は、
司馬的英雄から、藤沢的なるものへ変遷をとげてるのではないか、と思うからだ。
3の主人公は、国をあげて称えられ、後々まで勇名が語り継がれる。
子孫である1の主人公はローラ姫を救い、ローレシア、サマルトリア、ムーンブルクの
建国の祖となった。2の主人公はその血を継ぐ、由緒正しい家柄である。
これは司馬的である。「竜馬がゆく」ぐらいの一大長編が書けるかもしれない。
対して10の主人公などは、辺鄙な田舎から出てきて、
浪人が傘貼りでもするように、平生はライン工などをしている。
いちおうは世界を救うほどの働きをしているにもかかわらず、
それで周りの目がことさらに変わることもない。
群衆にまぎれる名もなき一人、に甘んじてるようでもある。
だが、いまの時代に求められるヒーロー(ヒロイン)像とは、
これではないか、とも思う。普段は冴えなくとも、ここぞという時は、
藤沢作品の主人公が秘剣をあやつるように、秘伝の奥義をくりだして巨悪を倒すのだ。
称号などもらえなくても、誰もが勇者になりうるのだという、
メッセージ性が根幹にこめられているような気さえする。
そんなわけで、これからの季節「蝉しぐれ」などいいですよ。
藤沢作品を手にとるきっかけとして是非どうぞ。