いつの頃からか、流浪の戦士・ヒューザがどこかにあらわれる、
そこに我も我もと押し寄せる、というのがアストルティアの定番の構図となっている。
だが、私はとりたててヒューザに会いたいとは思わないし、興味もない。
会えれば特典があることは知っているが、金策やカジノの手を休めてまで、
駆けつけたいようなものでもない。だいたい出没するのは行くのが面倒な僻地だし。
だから、彼があらわれるや否や駆けめぐるヒューザ情報も一切、必要がない。
それでもまあご親切というか、フレの中にはフレチャを飛ばしてきて、
いちいち教えてくれる人もいる。ご厚意には感謝せねばならんところだが、
飛ばしてくるのはなぜか、だいたい普段の交流もないエアフレなのである。
これが普段から親しく交流している、気心の知れたフレならば話のタネにもなるところだ。
そこから脱線して、世間話に発展したりもするだろう。しかしエアフレが、
「こんばんは」も「お久しぶりです」の一言もなく、だしぬけに
「ヒューザ、○○地方C−1!!」などと言ってくるものだから、こちらとしてはぎょっとする。
怪しいチェーンメールを、むりやり回覧させられてる気分になる。もっといえば迷惑なのだ。
まあここまでは、私個人の勝手な感情だということもわかっている。
だから一度は、「ありがとう^^ ヒューザ情報はとくにいりませんので」と、
やわらかめに返信しておく。しかし今日また送りつけてきたエアフレがいた。
さすがに私もぶっきらぼうな対応になる。ちゃんと言っておいたはずだが?
問いただしてみると、「とにかくいち早く拡散することが大事なので、情報が誰にとって必要で、
誰にとって不要か、いちいち確認している暇がない」という。これはすごい理屈である。
「あんたの迷惑より、俺の都合が優先されるべき」と言ってるのだから。
最大でも200人のフレ枠で、確認する暇がどうこう、ってのもわからないし、
何よりよくわからないのはその使命感だ。なにもキミが情報をばらまくのに血道を上げずとも、
ヒューザに会いたい人は、何かに引き寄せられるようにして会いに行くだろうさ。
私は、かつて根城にしていたツイッターを思い出した。
ツイッターには「リツイート」という機能がある。広めたいと思った誰かの記事を、
ワンクリックでお手軽に、自分のフォロワーに拡散することができる。
注目度の高い情報は、リツイート数もねずみ算式に、爆発的にふくれあがる。
これはデマでもおなじことで、ツイッターの功罪半ばするところだといえる。
ソースが不明瞭な質の低い情報を、ワンクッションおいて自分なりに吟味することもなく、
右から左へと流すことのあやうさ(このワンクッションというのは、今回の件ならば
ヒューザ情報が誰にとって必要か、それとも不要かふまえることである)。
東日本大震災の折には、情報災害、二次災害ともいえる惨状を呈したし、
もっとタチが悪いのは殺害予告のたぐいだ。
「何月何日、○○駅前で通り魔をする」とネット上に誰かが予告をする。
それを見た人は、何かに憑き動かされるような、妙な使命感でもって拡散する。
ネット上は殺害予告であふれる。しかしそんなものは、いたずらに世の中を震え上がらせたい、
という悪意に加担しているに過ぎないのである。情報が拡散すればするほど、
予告者はせせら笑っているであろう。予告通りに駅前で犯行がなされる、
あるいは情報の裏をかいて別の駅で、あるいは何も起こらない、さまざまな可能性がある。
いつどこにあらわれるかわからないのが通り魔の本質なのだから、
特定の状況を取り沙汰してもそれはまったく意味のない、「質の低い」情報なのだ。
ツイッターのユーザーの中には、自分からはまったく情報を発信せず、
ただリツイートをしているだけ、というタイプの人が相当数いる。
おそらくは、それで情報の発信者になっているつもりなのだろう。
それも個々の使い方だからケチをつける気もないが、本当の伝達というのは、
もっと自分の内なる声に耳を澄ませることではないのか。
伝えたい相手にそれが伝わるよう、心を砕くことではないのか。
右から左へ、拡散の波におぼれるような伝言ゲームはもううんざりなのだ。