若い時分にネットのなかった私の世代で、モノを書く人間というのは
文章が書籍化され、大手出版社の流通ルートに乗ることを目指すべきゴール、
芥川賞やらナントカ文学賞はその登竜門だととらえる傾向にあるようだ。
(……と書き出してはみたものの、これをどうドラクエにつなげればいいか
自分でもまったく見えないのだが、まあやれるだけやってみよう)
目指すこと自体はなんら悪いことではないのだが、どうなんだろう、
このご時世となってはいささか旧石器時代の発想に思えてしまう。
そもそも、文筆一本で身を立てている人がどれぐらいいるのかって話だ。
(村上春樹を頂点として)おそらく日本に百人いるかいないか、ではないだろうか。
それこそ宝くじの高額当選金が当たるような確率である。それだけの運も才能も、
自分に備わっていると思い込めるならジョン・レノンもびっくりの夢想家だよね。
(You may say I'm a dreamer)
かくいう私も、昔はその手の色気がなかったわけではないけれど——、
ある時期から憑き物が落ちた。インターネットが表現欲求を、
昔ならば胸のうちにとどめておくしかなかった衝動を、
(同人誌経験のない私にとってコミケは異形の文化に思える)
かなりの部分、すくいあげてくれるからだ。これ以上、お金もかせぎたいというのは
高望みもいいところで、時給千円のバイトでもしたほうが割は良かろう(笑)。
たとえばツイッターだ。私はツイッターの設計者が、まず想定していなかったであろう
使い方をしてムーブメントを派生させ、ピーク時には三千人のフォロワーをかかえた。
自費出版で三千部も刷れるかと考えると、これは破格の数字であろう。
なにかを表現したい、だけど世間様にモノ申したいことが本一冊分もあるわけではない
私にとってツイッターは格好の場所として機能した。
一方で、「自分はネットにおさまる人間ではない」と考えてしまう人も多い。
冒頭に挙げたような、出版という形にこだわる人たちである。
たしかにそこそこ気の利いたことは書いてるのかもしれない。しかし彼らは、
根本的なことがわかっていない。ネットを巡回すれば、それこそ掃いて捨てるほど
目にするような文章に、出版社がわざわざ商品化の手を投げかけると思うか。
綿矢りさは現役美少女JKだったから、ピース又吉は人気お笑い芸人だから、
(例えは悪いが)酒鬼薔薇の手記は有名な殺人犯だから商品価値があるのだ。
ごく少数の取り巻きにちやほやされて、舞い上がって、
「自分はもっと認められないとおかしい!」と出版社からすれば知ったことではない
取り巻きを後ろ盾に出版ゴロのような行為に及ぶ。当然とりつくしまもない。
ネットが誇大妄想を増幅させる装置としても機能している一面だが、
自分の文章に商品価値がないことが、そのまま自分の存在意義にかかわってしまい、
世を拗ねて生きるようになるならば、これは不幸なことだと言わざるをえない。
そもそも、先ず「表現したい」という欲求がメラメラと噴火直前のマグマのように
煮えたぎってる人間にとって、お金なんてものはたまたま後からついてくる、
その程度のものでしかないような気もするのだが。
ツイッターを経て、私はこのドラクエ日誌という場所にたどり着いた。
どのぐらいの人に読まれてるのかは見当もつかない。案外多いのかもしれないし、
ほとんど独り言をしゃべってるのとおなじかもしれない。しかし私にとって、
それはたいした問題ではない。多少なりともモノを書く心得のある人間にとって、
大事なのはとにかく書き続けることだ。それは自分にふさわしい場所に、
おのずと自分を運んでくれるのだろう(結局ドラクエと関係ない話になってしまった)。