虎は死して皮を残すというが、後年に残るような仕事、
そんな手ごたえを得た時に人は生きがいを感じる生き物なのだと思う。
クリエイターでもない大抵の人は子を産み育てる。
それも人類の営みにおいて立派な仕事だ。
ならば家族を成せず、これからも成す見込みのない私はどうか。
後の世まで語り継がれるような何者かになりたくてあがいて、
何者にもなれなかった人間、その成れの果てが私だ。
ジャズの名盤中の名盤に「ワルツ・フォー・デビィ」がある。
1961年、ビル・エヴァンス率いるトリオのヴィレッジ・ヴァンガード
(オサレ雑貨屋ではない)でのライブ演奏をおさめたものだ。
ビル・エヴァンスには——アンルシアにとっての我々がそうであるように——
盟友と呼ぶべき存在がいた。ベーシストのスコット・ラファロだ。
なんと彼は、この歴史的名演のわずか11日後に、
交通事故で落命してしまう。ビルの崩れ落ちそうなほど
繊細なピアノプレイに、春の息吹のようなみずみずしい
生命力を与えているのはスコットのベースだが、
一抹のうら寂しさが忍ばせてあるように感じられるのは、
後年の我々が彼に迫りくる結末を知っているからかもしれない。
今際の際に彼は何を思っただろうか。勝手な言い草であるが、
タイムカプセルに入れて半永久的に残す価値のある、
演奏をした手ごたえを胸に旅立っていったと思いたい。
日々の生活に追われて忘れがちであるが、我々もまた例外なく、
いつかは死ぬ。それは何十年後か、それとも明日かわからない。
「何を残せるんだ」矢継ぎ早な問いかけが胸に去来する。
ドラクエをプレイした足跡はいずれ電子の海の藻屑と化してしまう。
この日誌だって同時代のプレイヤー以外には皆目意味のわからない、
駄文の類だ。そんなかったるいこと言ってないでさ、
楽しければいいじゃん。それもひとつの哲学だ。
しかし後世に作品の残るクリエイターになれず、
家族も成せなかった私には、どうしても引っかかるものがあるのだ。
「ワルツ・フォー・デビィ」という金字塔を打ち立てたものの、
スコットという盟友を失い、人生の折り返し地点を過ぎた
ビル・エヴァンスは精彩を欠くようになり、晩年には
ヘロイン中毒になってしまう。享年は51歳。
長生きとはとても言えない年齢だ。
そこまで私も、もう何年もない。私は何を残せるのだろうか。
愛すべき人に、ワルツを捧げる日は来るのだろうか。