会話の中で「それとこれとは別」という言い方をよくするだろう。
私もたまにする(かもしれない)。だけどまったくの別物だなんて、
そんなことがありえるのだろうか。きっとどこかでつながってるんじゃないか。
同じ根っこから伸びた、ある部分は花と呼ばれ、
ある部分は葉、またある部分は茎と呼ばれる。
それをあたかも別物のように分類しているだけなんじゃないか。
植物が物言わぬのをいいことに、話の都合で切り分けているのだ。
これは某作家の受け売りで、私オリジナルの方法論ではないのだけど、
「自分について」書こうとするからとんでもない薮にはまる。
小学校の作文の課題でも出そうだけどね、「自分について」。
でも、実はこれはむちゃくちゃな難題なのだ。
自分とは何者なのか——有史以来、人類最大の難問である、
アイデンティティについて問うてるわけだから。
ならば周りを見渡してみるといい。たとえばラーメンがあったとする。
ラーメンが好きでも嫌いでもいい、まずはラーメンという
具体性に降りていって、そこから自分との関係性を語る。
するとあら不思議、間接的ながらも自分について語れてしまうわけだ。
「自分とは何ぞや」と頭を抱えているような人には、
ヒントになる話ではないだろうか。
私がこの日誌で独りよがりなことをさんざん主張してるわりに、
フレチャやチムチャではゆるゆるな雑談を好むのは、
このへんにも理由がある。自分とまったくの無関係に、
転がっているものなどないのだ。すべてのものに、
自分の魂にアクセスするようなヒントが詰まっているのだから。
植物の声なき声に耳を澄まそう。何か語りかけてきたとしても、
満更それは勘違いでもないだろう。