古来からある文化で、将棋ほどコンピュータと親和性の高いものを他に知らない。
(囲碁もそうなのかもしれないがよくわからない)
次の一手、指した手の善悪、形勢判断などを瞬時に計算して
パーセンテージを出す、なんてのはもっとも得意とするところだ。
棋譜も昔なら手書きで写したりしたのを、今はコピペで楽々再生できる。
カレーと福神漬け、ビールと鮎の塩焼きぐらい、
「出会いのもの」といえる。その代わりというか、
観戦する側に立つとコンピュータ以前と以後では、
ゲーム性はまるっきり変わってしまった。
昔は高段の棋士が解説役をつとめ、次の一手を視聴者と一緒に、
推理するようなスタイルだった。今はコンピュータが事前に
最善手を割り出してしまい、その通りに指せるかを見守るような感じだ。
正解がまず先にきてしまうのだ。これがいいのか悪いのかは、
私からはなんとも言えないけれど、コンピュータが出した結論ありきで
人間がそれに沿って動く、現代っぽい話ではないだろうか。
親密になったあまり、行動原理まで乗っ取られてしまったかのような……。
将棋の世界はあたかもコンピュータに支配されたかのようであるが、
人間の脳にあってコンピュータにないものがひとつだけある。
それは「忘れる」機能だ。コンピュータは「このファイルを削除」、
という命令を与えられない限り、自動的に無作為に、
忘れてしまうことはない。「忘れる」とはあまりいい意味で
使われないけれど、これがないと我々の頭はパンクしてショートしてしまう。
一番、誰にでもあてはまる例えをすると「死」だ。
誰でもいつかは死ぬが、忙しい日常に埋没しているので
それを忘れてしまう。死ぬことが頭から離れないでいると、
まともな生活を営むのは難しくなってしまうだろう。
いやな思い出も適宜忘れてしまえるから、なんとか生きていける。
ではコンピュータもうまい具合に「忘れる」機能を搭載し、
何もかもが人間を上回る知性を獲得し、この社会を完全に
支配する時が——ディストピアSF的な将来がやってくるのだろうか。
まあ私はそこまで生きてないでしょうから安心です。