「一人一人が、自分という人生の主人公だよ」
みたいなセリフを聞いてあなたは何と思うだろうか。
うんうんその通りだ、と頷くだろうか。はたまた、
一見それらしいことを言ってるようで内容は空虚だとしか思わないか。
「自分こそが、自分という人生の主人公」これ自体は疑いようのない、
一面の真実である。しかし同時に、他人にとってはモブキャラでしかない。
他人の人生でもシンデレラのようにふるまおうとし、
カボチャの馬車や森の木に甘んじることのできない、
自意識が錯綜したカオスが現代だと思うわけなのだ。
世界を救う主人公に自分を仕立て上げるゲームも、一役買ってるのかもしれない。
なぜこんなことを書き出したかというと、私の肉親である、
とある人間のツイッターが痛々しくて見てられないからである。
彼女は「相互フォロー」という関係性に異様にこだわる。
何らかの理由で(理由というほどのこともないのだろうが)
フォローが外されると烈火のごとく怒り、相手を口汚く罵る。
他人にとっては、いくらでも代えがきくモブであることが許せないのだ。
先日の日誌で書いた、「私たちを無下にモノ扱いするな」
という話と一見相反するようだが、フレ整理宣言も高らかに切られるのと、
そもそも友人関係ですらない相互フォロー状態を、
黙って解消されるのとでは意味合いはまったく異なる。
後者は、言ってみれば距離の離れた場所に住んでる他人同士が、
たまたま同じ方角、同じ月を見上げているようなものだ。
「きれいだね」と感想を共有することもあるだろう。しかし月を眺めるのにも
飽きたからといって、やめるのは誰にも咎められない。
相互フォローの解消に腹を立て悪罵を書き連ねるのは、
月にも飽きて別のことをはじめた他人の人生にズカズカ入り込んでいって、
月を見ろ、ひいては私を見ろと強要しているようなものだ。
彼女は「相手にとって私は利用価値のない人間だから切られた、私は人を金で見ない」
なんてことも言う。リムーブの理由なんて十人十色だし、
まったく想像しえない理由かもしれないのだが、
自意識がブーストするあまり被害妄想に拍車がかかる。
そこに金まで持ち出してくるのは、誰よりも自分こそが、
金という価値観にとらわれている証拠でもあるのだ。
これが赤の他人のツイッターなら、ニヤニヤ見てられるんだけど
肉親なだけに痛々しいんですよ……素直に忠言を聞き入れるタイプでもないし。
プライド、自己肯定感、そういうものは人生を乗り切る上で、
確かに大事だ。しかし自意識にさいなまれ過ぎると、
目を覆い、耳を塞ぎたくなることが増えてしまう。
大音量でがなり立てる歌より、ほどよくボリュームを下げた歌のほうが
よく聴こえるように、自意識のボリュームも調整が必要なのだ。
それは卑屈になれってことじゃない。