「何が嫌いかより、何が好きかで自分を語れよ」と
どなたかがおっしゃったそうですが、感性をみがく上で
嫌いなものを、「それがなぜ嫌いなのか」と文字に起こす作業は
好きなものについて語るのと同じくらい、意味のあることだと私は考える。
誰の悪口も言わず、ポジティブな言葉だけ吐いてれば
カッコいいのかもしれないけど。たいがいの人にとって
世界の半分は嫌いなもの、気にくわないものである。
そこから目をそらしてるだけ、逃げてるだけとも取れるのだ。
ま、悪口を言うにしても願わくば芸はあってほしいところだ。
エンタテインメントとして昇華されてない悪口は、
読むほうもつらいし言うほうもつらいだろう。
昔、林家こぶ平(現正蔵)のご祝儀の申告漏れが発覚した頃、
演芸場に行ったら演者の半分くらいがこぶ平への
悪口や皮肉を述べていた、なんてことがあったが、
あれは噺家仲間としての「お前何やってんだ、シャキッとせいよ」
という辛めのエールだとも受け取れるわけだ。
噺家のように言葉を巧みに操るのは難しいにしても、
芸のある悪口は裏を返せば、ポジティブに生きる姿勢のあらわれでもある。
それにしてもいまだに「正蔵」ってピンとこないんだよな。
こぶ平はこぶ平だろ……。
ドラクエ1の竜王の「世界の半分をお前にやろう」は
あまりに有名なセリフだが、解釈しだいでは彼は、
目に入れたくもない嫌いなものを、闇にパッケージングして
勇者に押しつけようとしたのかもしれない。
好きなものだけに囲まれて生きることは、そのぶん他人に
負荷を押しつけている可能性もある。「世界の半分」から目をそらすな、
正面から向き合え、舞台が暗転してどこへも行けなくなる前に。