私にとって「ドラクエがドラクエ」であったのはいつまでだろうか。
ふっかつのじゅもんを書きとめた紙っぺらをかたわらに、ファミコンで遊んでいた頃の
ドラクエと今のドラクエXは、世界観を共有してるだけの、まったく別物のゲームだ。
昔のドラクエはターンエンドまでの歩数を数えたりしないし、商材の相場を同業者に爆下げされて血管がブチ切れることもない。
単純に昔は良かった、という話ではない。ドラクエが好き、という一心でプレイしていたら
思わぬところにさまよい出てしまったなあ、という違和感なのだ。
イーグルスの「ホテル・カリフォルニア」は洋楽に明るくない人でも知っているであろう
定番中の定番だが、この曲のキモは2番の歌詞にある。
主人公は支配人にワインを注文する、すると彼はこう言う。
”We haven't had that spirit here since 1969”
(こちらではそのような酒は1969年以降置いておりません)
1969年といえばウッドストックが開催され、ビートルズが実質的な解散を迎えた年だ。
それを境に、ロックからは魂が失われてしまったと酒(spirit)にかけて皮肉っているのだ。
これは何も、高みに立って他のバンドを批判するだけの意味合いにはとどまらないだろう。
イーグルス自身、ロックの商業音楽化の波に飲まれつつあることを危惧や自省をもって語っているのだ。
(実際、ほどなくして80年代という商業ロックの一大黄金期が訪れることになる)
どこへ行ってもタイガークローの「シュ〜シャオシャオ」という音が聞こえてきた時代、
アストルティアのすべての民にとってツメの攻撃力がすべてだった。
だからみんなアトラスに足繁く通ったり、ヴァース大山林でちからのゆびわ集めに勤しんだ。
その頃までの私はこのゲームを、旧来のドラクエの延長線上にあるものとして楽しめていた気がする。
しかし時は流れ、ツメが武闘家の武器としてほとんど意味をなさなくなり、
このほど私は永らく切らなかった武闘家のツメスキルをとうとう切った。
サブウェポンは風斬りが使える扇、残りは中途半端にツメに振るぐらいなら棍にでも振っとけ。
ルベランギスの戦闘を突きつめたり、時代の要請を鑑みるとそういう結論になってしまうのだ。
ツメ武闘家の最高峰を目指してひた走ってきたはずが、いざその高みにたどり着くや否や捨てる羽目になるとは、
なんという皮肉だろうか。夜の砂漠のハイウェイを走っていたら、
ホテル・カリフォルニアという夢とも幻ともつかない場所にさまよい着いてしまったかのように、
見渡す景色は「こんなはずじゃなかった」という違和感に彩られている。
あたりに佇むNPCたちはうわごとのように、
”Such a lovely place”(ここは素敵な場所です)と繰り返す。
しかし私にはそれすらも皮肉めいて聞こえる。
日本には「仏作って魂入れず」という言葉がある。
今の私は作れるだけ作り散らかして魂も何もない、空っぽの仏像に囲まれているような気分だ。