ファミコン版ドラクエ3にて。
ぼうけんのしょをつくる
なまえ
〇〇〇〇
おとこ
→ おんな
「おきなさい。
おきなさい わたしの かわいい
〇〇〇〇や……。
おはよう 〇〇〇〇。
もう あさですよ。
きょうは とても たいせつなひ。
〇〇〇〇が はじめて おしろに
いくひ だったでしょ。
このひのために おまえを
ゆうかんな おとこのこ として
そだてたつもりです」
堀井雄二さんはもうこの時に教えてくれていたんですね。
「ドラクエはテストプレイをしません。
テストプレイをしないから調整も適当です」
そう察してくださいと(笑)
ファミコンだから?
リメイクされたスーパーファミコン版では、
確かにこの箇所は直されていました。
しかし、序盤に訪れるロマリアの城下町では……
「ねえ おにいちゃんたち
アリアハンから きたんでしょ?
ボク すぐに わかったよ!」
ボクも すぐに わかったよ!
やっぱり ろくに テストプレイをしないって!
堀井雄二さんって、ユーザー思いで、
細かいところまで気の利いた絶妙なゲームバランスをする人、
個人的には勝手にそういうイメージがあったのだけれど、
改めて見ると、実はそうじゃなかったんですよね。
レベル制によるゲームバランスの調整にしても、
ちょっと数字を弄るだけで何とでもなるのに、
ファミコン版ドラクエ2のダンジョンなんて、
異常なエンカウント率とモンスターの強さは勿論のこと、
マップ自体も理不尽極まりなく、悪意の塊です。
RPGでボリュームがあるように見えるけれど、
実はそういうところで水増しをされていただけなんですよね。
「じゃあ、どこでゲームの難易度を上げるのか?」
と言われたら、それはまた難しい問題だけれど、
少なくともこれが正解ではないとだけは断言できるでしょう。
無駄に時間をかけさせられる、ストレスが溜まるだけ、
娯楽としてこれは明らかに悪いことだからです。
ボリュームの水増しと言えば、
「タンスや壺、地面を虱潰しに調べる」
「雑魚モンスターをひたすら倒すことを努力と思わせる」
これもなかなかのことで、
日本人に多い貧乏性と真面目さを巧みに利用しています。
勿論、そういう要素はあってもいいし、
ゲーマーならやってしまう行為で、楽しい瞬間もあります。
しかし、それをゲームを進めるうえで必須にしてしまったら、
意味が全く変わってくるのです。
ただ、そういう視点からドラクエ10を見ると、
ドラクエ10は堀井雄二さんの意思を継いでいる、
ドラクエらしいゲームバランスになっている、
そう言えるのかもしれません。
「まともにテストプレイをしていないのか!」と、
ドラクエ10においてユーザーからよく言われるけれど、
「いやいや、これがドラクエであり、
ドラクエファンが言うところの堀井節でもあるのです」
そういうことなのでしょう。
思い込むことなかれ。
そして、受け入れるべし。
「ドラクエなのに」ではなく、
「ドラクエだから」こうなのです。