パレットにベニヤの合板を打ち付けた土台の上に柔らかな牧草が敷き詰められた寝床で、シオンはゆっくりと目を覚ました。
瞳の虹彩が夢から覚めたばかりの世界に明度を合わせると、水晶体がピントの合わないボヤけた視界を徐々に精細にしていった。目覚めた時、最初に瞳に映り込むのはいつも蜘蛛の巣だった。
小屋の柱と屋根の境目から張り巡らされた蜘蛛の巣は、今はもう当に主を失い草臥れている。時折開いた木窓から入り込む春の夜風が木の葉と一緒に室内を舞い、巣は風に撫でられてフワフワと揺れていた。
シオンは床に左前足、次に右前足、続けて後足と順に突き立てて、それらを支柱にして体を持ち上げて起こすと、もこもこの白い毛に着いた無数の牧草を、ぶるると体を揺すってふるい落とした。
夜明け前の家畜小屋は静まり返っていた。隣の柵で眠る仲間たちの寝息がハッキリと聴き取れる。
誰かが風邪を引いているのか、時折鼻腔の奥に残る粘着物が膜をなし、寝息に混じってずずっと震える音がする。小屋の外では夜風に揺れる若木の葉が時々さらさらと擦れ合い、心地よい葉音を鳴らしていた。シオンは耳で木々たちのたおやかな音色を聴きながら、小屋の入口の扉に目をやった。
観音開きのアーチ状の大きな木戸に外から貫抜錠が掛けられたその扉は、長い年月の間に虫に喰われたのか所々縦に楕円状の細長い隙間が出来ていて、そこから外に昇る月の光がうっすらと射し込んでいた。シオンがぼぉっと眺めていると、外の錠がガタガタとなり外れる音がした。間もなくして、ぎぃっと鈍音を響かせながら、ニンゲンの背中に押された扉が人1人分だけ僅かに開いた。
ニンゲンは体を反返る弓のように上半身を肢体の外側に向かって僅かに傾けて全体のバランスを取りながら、その小さな体には不釣り合いな大きなバケツの取っ手を両手で持ち、よろよろと小屋に入ってきた。
バケツを小屋の隅に置き一息つくと、左の手で腰に下げた革製の鞘から鉄の棒を引き抜いた。先端には布が幾重にも巻き付けられていて、そこには燃料が塗布されているらしく、古びたオイルの匂いがシオンの鼻をかすめる。
次にニンゲンは、胸元で右手を天井を指さすようにして立て、静かに目を閉じた。
「……。」
少しの間があっただろうか。ニンゲンはゆっくりと目を開くと、遠くの誰かに語りかけるような、聞き取れないくらいの声量で口を小さく開閉した。瞳はどこか虚ろで、シオンにはその様子が、この世の者ではない何かと対話している風にも、ただ独り言を呟いているようにも見えた。
一頻りの言葉を終えると、瞳はいつもの蒼碧色を帯び始め間に僅かな沈黙を置いた後、ニンゲンの下半身を覆うヒラヒラとした麻の衣服がふいにゆらりと揺れ、足元の床から小さな火の玉が飛び出した。
それは、シオンにとっては、取るに足らない日常という日記のほんの1ページの極々当たり前の光景だったが、仲間たちの中には今でもこの火の玉を恐れて寝床の奥で身を潜めている者が多い。シオンは、熱を帯びて真っ赤に染ったそれを初めて見た時、
「まるで食べ頃のリンゴみたいだすな……」と思った。
宙に浮かんだ火の玉は足元でニンゲンを軸に周囲を反時計方向に数回素早く回ると、続いて足元の床に蒼白い光を纏った魔法陣が浮かび上がり、火の玉と同じく反時計の方向にややゆったりとしたペースで回った。シオンは不思議な光を放つ陣をじっと見つめていた。
「...メラ。」
と、ニンゲンは短い単語を柔和な声で呟いた。次にシオンがニンゲンを見ると、いつの間にか彼女の右手の人差し指の爪先で、火の玉は小鳥のように留まっている。
ニンゲンが火の玉を携えた指先を、そっと鉄の棒の先端に近づけると、見えない鎖に引っ張られるように遅れて火の玉も後をついてゆく。指先に達したところで、鉄の棒の先端の燃料と火の玉が接触し、燃料が塗布された布地はボッという音を立てて、水面の揺らめきのような穏やかな炎を宿した。
ニンゲンは指先を口元まで運び、遅れて着いてきた火の玉を出迎えるようにふっと細い息を吹きかけると、火の玉は風に吹き消されるロウソクの灯火の如くすっと消えた。
ニンゲンは鉄の棒を小屋の四隅にある大きな斜め掛けの松明に掲げて火を灯した。
それまで薄暗かった室内が、松明の灯火に照らされて淡い光に包まれる。
「……!」
ニンゲンは気合を入れるように小さく掛け声をかけるとバケツをもう一度持ち上げて、またよろよろしながらシオンたちの柵の前まで運んだ。
そして一息つくと後ろを振り返り、背後の小屋の壁に立てかけられた大振りな三又の鍬を手に取った。
鍬は長年に渡って使い込まれていて、金属部分が赤褐色に変色しているが、きちんとメンテナンスが行き届いているのだろう。鍬の刃は松明の灯りを鈍く反射していた。
(...次回に続く)