姫と別れて図書館につく頃には、
辺りは陽が沈み始めていた。
夕陽が図書館の大窓に紅く穏やかな光を注いでいる。
図書館の玄関には「CLOSED」と書かれたドアプレートがかかっていて、白いペンキで書かれた文字が薄紅色に染まっていた。
玄関の扉の前に立ち、
ドアの持ち手に手をかけたまま、
私は母にどう切り出すか考えていた。
選書をやめたいという気持ちはなかった。
むしろ謎の声の正体をどうにか暴こうと、
気持ちが高揚していた。
大抵の場合、
私はこういう時なにかしらの失敗をする。
言葉や気持ちだけが前のめりになって、
大事なところで事を仕損じる。
声の話をした時の姫の顔が、
脳裏をよぎったが、
他に良い答えが浮かぶわけでもない。
「落ち着いて」深呼吸をしてから、
私は高鳴る気持ちを落ち着かせる。
私が導き出した答えは、やっぱりこれしかなかった。
「正直に話そう」頭の中では常識的な私と、
そうでない私が交互に意見を交わす。
ただ、私は自分にそう言い聞かせ、
ひとり頷いてから図書館のドアを押した。
鍵はかかっていない。
学園がある日のこの時間には、
いつも私が図書館を訪れることを母はわかっている。閉館後に誰かが来たらどうするのだろうと思うこともあったが、お人好しの母のことだ。
訪れた人から聞かれでもしない限り、
事実を伝えたりせず、
司書としての事務を疑問も持たずにこなすのだろう。そんな誰に対しても人当たりの良い母の性格を、
幼い頃の私はあまり好きになれなかった。
今ではそういう人なのだと納得できる。
「CLOSED」書かれた文字に反して、
すんなりと開く扉。
これが母なりの愛情表現だと気づいたのは、
いつ頃だっただろう。
扉は半分ほど開くと、キィっと乾いた音をたて、
間から夕暮れの残光が、館内の床にこぼれた。
私の影がそれを半分ほど黒く染めている。
「おかえりなさい」
いつものように微笑みながら、母が私を出迎えた。
「ただいま」私もいつものように振る舞った。
「お茶とお菓子を用意したから、先に食べる?」
これもいつもどおり。
普段なら講義の課題を先に終わらせてから、
本を読みながらお茶をするところだけど。
今日は別の目的もある。
「うん。さきにお茶したい」
「わかったわ。それじゃテーブルの準備をするから、荷物を置いてらっしゃい」
いくらここが自宅のような場所といっても、
由緒ある王立図書館だ。
床や内装が汚れないように、母とお茶をするときは、受付裏の個室で自宅から持ち込んだ折りたたみテーブルを開いて使っていた。
私は先に個室へ行き、
荷物を置いて沈み込むようにソファに座った。
個室の書架には返却された本が、
まだ何冊か置いてある。
「サンドラッド事変」、「歴史から学ぶ算術」、
「魔王の玉座」。
ひとつだけ見覚えのないタイトルがあった。
ふっとため息をつきながら、
私は窓から部屋の外をみつめる。
小窓には薄暗くなった景色と、窓辺に置かれたリンドウの花、そして部屋の明かりをたたえた無表情な私の顔が映っている。
「……ますか」
私以外誰もいない部屋で、
とつぜん誰かの声が聞こえた。
母の声じゃない。
「だれ!?」
ハッと息を飲み、私は思わず声をあげた。
すると、さっきよりもハッキリとした声が頭の中に響く。
「だれか私の声が聞こえますか」
それは、あの女性の声だった。