
夕暮れは雲のはたてに物ぞ思ふ
天つ空なる人を恋ふとて
読人知らず『古今集』巻十一 恋歌一 四八四番
待宵の月
錆び鉄色に染まった楓の木から吹き降りた一陣の風が、ちぎり絵のように地面に貼られた金箔の椛(もみじ)の華を、金烏(きんう)の沈んだ夕闇の空に幾ひらと舞い上げるのが見えました。
つむじ風の中から伸びた陽炎(かげろう)の白い手が、椛の枯れ葉に紛れていた一匹の玉虫の亡骸を、そっと掌に掬い上げました。
短い生を生き、重ね合い、命を紡いで死んでゆく。
これほど愛おしく、儚いものが、ほかにあるだろうか。
そうして、あとどれほどの百夜(ももよ)を生きれば、輪廻に縛られた魂の鎖を断ち切れるのだろう。
風が去ったあと、火の落ちた東の空から昇ってきた待宵(まちよい)の月が、地面にとり残された玉虫の身体を、ひとり虹色に輝かせていました。

風と椛 一
森の奥に忘れられたように建っている古びた東屋の中で、ひとりの天狗が何やら呟きながら地面に寝そべっていました。
真珠色の文布(あやぬの)で織られた華奢なブラウスの背中には、真っ黒な鴉の羽根が生えていました。
椿の油を馴染ませた艶やかな黒髪に緋色の頭襟(ときん)を載せたその天狗は、もう随分と永い刻を生きているふうでしたが、外見は、まだ若い十代後半の少女のようにも見えました。
「あやややや。ここは素直に、太陽としておきますかぁ」
軽い口調で天狗は言うと、印を結んだ利き手の指に万年筆を挟んで、楮(こうぞ)の和紙の手帖に書き記されている言の葉をペン先でなぞりました。
「金烏(きんう)なんて、最近の若いもんは意味どころか、読み方も知らんでしょうし」
天狗は、丈の短いスカートから覗かせている色白の長い脚を組みかえて、少し膨らみのあるブラウスの胸ポケットに万年筆をしまいました。
それから、右開きに綴じられた手帖を静かに閉じると、桜貝のような中指の爪で柔らかに和紙の肌を撫でました。
その手帖の表紙には、『文花帖』と墨書きされた短冊が貼られていました。
風と椛 二へ続く