「ウィルカ。セミ捕りに行こか」
毎年、夏休みのお盆のころになると、熊野の山郷にある母の実家に家族で帰省していました。
祖父は私が生まれる数年前に他界していて、熊野の家には、母の兄にあたる伯父が年老いた祖母と二人で暮らしていました。
寡黙でおとなしく、いつも無表情でいる伯父のことが私は少し苦手で、明るい叔母と叔父ばかりに懐いていました。
そんな伯父が優しい微笑を向けて、珍しく私をセミ捕りに誘ってくれたのでした。

ケケケケケケケー…
「あの声、なに?」
「ああ、あれか。『メシ炊けゼミ』や」
夕方の山あいに鳴り響く不思議な声を聴いた私に、伯父はそう言って、手にした虫取り網で杉の木の高いところに止まっている一匹の蝉を捕まえてくれました。
「ほら見てみ。腹の中になんも入ってないやろ? 腹が減って『炊け炊け炊け…』って、いつも鳴いとんのや」
伯父が見せてくれたその小さな蝉は、腹部が透明で、体の中が透けて見えていました。
それが「ヒグラシ」だと知ったのは、小学生だった私がもう少し大きくなってからのことでした。

その伯父が、自らの手で命を絶った翌年の初盆の夜。
まだ元気だった母と叔母が、二人が育った懐かしい熊野の家で、楽しげに談笑していました。
伯父の位牌が祀られている祭壇の天井を、色とりどりの和紙が貼られたお盆のぼんぼりの灯りが、周り灯籠のように幾つもの影を映しながら、ゆっくりと回っていました。
私は二人とは少し離れたところで、縁側でひとり夏の夜風に当たっていました。
すると、どこからか飛んできた一匹の蝉が、縁側の網戸にすがって止まりました。
その蝉は、私が何度追い払ってもまたすぐに戻ってきて、網戸の同じ場所に止まりました。
蝉が張り付いている網戸の向かいには、亡くなった伯父の位牌がありました。
「ああ、きっと死んだ兄さんが、蝉になって自分のところに帰って来たんやわ」
母と叔母はそう言って、若い娘のように無邪気に笑い合いました。

その夜。
亡くなった伯父が使っていた離れの部屋で、独りで寝ていた私は、ふと目を覚ましました。
すぐそばの山の中から、なにかの「声」が微かに聴こえてきました。
真夜中の午前2時。
そのまま寝ようとも思いましたが、どうしてもその声が気になった私は、部屋の箪笥の中にあった懐中電灯を持ちだすと、母たちに気づかれないようにそっと家から抜け出して、声のする方角に独りで歩いてゆきました。
家のすぐ後ろにある裏山の入り口が、迷い込んだ私を闇の中に呑み込もうとして、口を大きく開けていました。
その「声」は、足元の茂みの中にいました。
懐中電灯の灯りの中で、一匹の蝉が、真っ黒な目をした大きな蟷螂(かまきり)に捕まっていました。
…あの蝉だ
私は直感しました。
大鎌に挟まれたヒグラシが、その苦痛と恐怖から逃れようとして、蟷螂に生きたまま腹を食い破られる度に悲鳴を上げて、透明な羽を死に物狂いでばたつかせていました。
私は懐中電灯の灯りを外し、踵(きびす)を返して、静かにその場から離れました。

ぎゃーてー ぎゃーてー はらぎゃーてー
お盆の最後の夜。
河原に集められた沢山のぼんぼりが、オレンジ色の炎に包まれました。
はらそーぎゃーてー ぼーじーそわか
般若心経が唱えられる中、私は手を合わせて、送り火の光を見守りました。
今度は人間に生まれ変われるよね。
…さようなら、おっちゃん。
死んだ人の魂が無数の火の粉になって、夜空の高くに昇って消えてゆきました。