引き続きレンダーシアでの冒険を振り返る。三門からワルド水源を下りて先、童話と小麦の村メルサンディだが、エテマメにとっては愛鶏コッケちゃんの故郷としても重要な村だ。なにしろエテマメのイメージカラーとたまたま合うニワトリがいて、たまたまお値引きされていたからこれはもう運命の出会いというしかない。
それはともかくメルサンディといえば「ザンクローネ物語」だが、童話作家パンパニーニが書いた未完の第三話までの物語と、後にアイリが書いた最終話を読んだ人はなにを思ったろうか。まずはエテマメの感想。
「ぱんぱにーに おまえ は いまいちだ」
とかいいながら、正直いえばパンパニーニが書いた物語は登場人物がいきいきして魅力的だと思う。なにしろザンクローネは分かりやすくて格好いいし、彼に憧れる少年ラスカもまっすぐで格好いい。このシナリオでもらえる称号「永遠の二番手」だって、ザンクローネとラスカの次だから三番手だよねとわりと本気で思っている。たぶんラスカだったら将来メルー公やランガーオの村王みたいないい男にだってなれる。
いまさら説明するまでもないことだが、彼らの格好よさこそ勇気そのものだ。バージョン2の「眠れる勇者」は、人々が見せてくれる勇気を受け継いで、やがて勇者として覚醒する。そしてラスカが勇者に勇気のなんたるかを教えた一人であることは、アンルシアにとって彼が特別な存在であることからも分かるだろう。
ではなにがいまいちかといえば、パンパニーニが物語を書いた当時の時代がいまいちだ。物語は古いからいいとは限らないもので、時の世相や倫理観によって理不尽だったり残酷だったりすることがある。原作を改変することへの是非についてはめんどくさいから言及を避けるが、本当は〜とか言われなくても昔ばなしとはそういうものなのだ。
ためしにメルサンディに行って、本棚にある「小さな英雄ザンクローネの物語」を読み返してみよう。第一話は文句のない名作だ。小さな英雄ザンクローネが、とつじょ村にあらわれた巨大な足を火燐刀でまっぷたつにする。でもあの足はなんだったのでしょうという「次回につづく」まで書かれていて続きを読みたくさせられる。紙芝居にもしやすそうな、シンプルで短くて楽しい作品だ。
問題は第二話だ。とつじょ現れた巨大な顔が、逃げる村人たちをムシャムシャ食べていく。ザンクローネは少年ラスカに、お前自身が英雄になれと言いのこしてしんでしまう。大魔王マデサゴーラのお気には召したらしいが、いったいパンパニーニは何を考えてこんなお話にしたのだろうか?
実は物語としてはザンクローネがしぬのはアリだ。英雄の意志を継いだラスカがたった一人で巨大な手に立ち向かう。ザンクローネが復活して村にふたたび平和が訪れる。この第三話は「不思議な旅人」の登場によって内容が書き換わったようにも思うのだが、英雄に憧れたラスカが英雄として立ち上がる流れはとてもいい。
問題はそこではなく、ムシャムシャ食べられた気の毒な村人たちの存在だ。これだけのことをしでかして、魔女のやったことは許されないと言われればさすがにそうだよねと言うしかない。巨大な足は村人を踏みつけて、巨大な手は村人をさらっていくが、巨大な顔が村人をムシャムシャ食べるのはちょっとどうかと思う。なのだが、更にここで妄想するならパンパニーニの時代では、村人が食べられるくらいなら悪いやつの悪事で済んだ可能性もある。村人はまたつくればいいが(妄想)、たとえば魔物に畑が荒らされたら村が全滅するかもしれない(妄想)。
そして考える。この一話二話三話を読んで、最終話「英雄はすべてを救う」を書くことができるアイリの文才はたいしたものだ。魔女のしたことには理由があるが、魔女のしたことは許されないとしっかり描いた上で、それでもザンクローネとラスカだったらこうするよすげーよいいお話だよ。
アストルティアにおける勇者とは、大魔王が現れたときに世界を守るためにグランゼドーラ王家に発現するシステムでしかない。だが「すべてを救う」勇気は勇者でない者だって誰だって持つことができる。そして勇気を持つ者を英雄と呼ぶ。その英雄が勇者に勇気のなんたるかを教える。レンダーシア編のこの流れは本当に見事だと思う。
だからパンパニーニに、お前の孫はお前よりももっとすばらしい作家だといえば彼は心からよろこんでくれそうなものなのだが、ここはアイリの苦労を考えて、あえてもう一度エテマメの言葉を借りておこう。
「ぱんぱにーに おまえ は いまいちだ」