間違ったつよさをふりまわしている人々を見て思うことがある。
やさしさと甘さを取り違えた人々を見て思うことがある。
アストルティアには立派な大人や尊敬できる大人が何人もいる。筆頭格はランガーオの村王クリフゲーンとオルフェアのナブレット団長で、双剣の従者ファラスも匹敵するだろう。ヴェリナードのメルー公もかっこいいけど、彼は自分のかっこよさをすべてひとりの人物に捧げているから邪魔をするのはやぼというしかない。
たびたび主張しているけれど。
マメミムがひとの言動を見るときは、そいつが「みにくい外見で」同じことを言ったらどう見えるかで判断する。誰よりも強いから誰よりもやさしくあろうとしたクリフゲーン、菓子職人の夢を捨てても子供の夢を守ろうとしたナブレット、主君に娘を傷つけさせぬために我が身を差し出したファラス。彼らのかっこよさは外見や声で変わるものじゃない。とはいえクリフゲーンやファラスのように、甘いハンサムが世の中に存在することは否定しない。
つまりマメミムがフィーロを推していることは周知の事実だ>本題
気弱に思われても揺るがないやさしさと、みんなを後ろから支えて芯を曲げないつよさがある。子供だからこその未熟さもあるけれど、完璧じゃないという理由でひとを非難できるほどマメミムは完璧な人間なんかじゃない。
フィーロの控え目さは、子供たちを導こうとするリゼロッタを支えるためだ。だからリゼロッタが足を踏み外しそうなときは、フィーロは彼女をきびしく諭すことができる。事件に責任を感じているリゼロッタを差し置いて、彼女の成長を奪うようなことを彼はしない。フィーロの忠義と友情に厚い姿は、もしもリゼロッタが勇者であれば盟友に選ばれるにも足りるものじゃないかと思う。
これは妄想だ。
アンルシアに英雄のなんたるかを教えたのがラスカだったように、フィーロはマメミムに女王を支える存在を見せてくれていたのかもしれない。フィーロが支えたリゼロッタが、セレドの多くの子供たちを導くことができるなら、それが女王リゼロッタを支える盟友フィーロのふるまいだ。
セレドを襲った悲劇が無念でしかたがないけれど、偽世界のセレドの子供たちはアストルティアのどの国や町の住民たちよりも立派なひとびとだ。彼らが自分たちで考えて成長する人間たちであるならば、器なんてたんなる外見でしかない。
とはいえマメミム的にはフィーロはドラクエ10屈指の美少年だから、美形に目がないミラカならずとも彼がちょっと憂いのある面持ちでくせっ毛がすこし風になびいていて教義と愛を語りでもしたらセレドにはマメミムの長蛇の列ができることはいまさらだ。もちろんそのときにはシャープな美青年に成長したセリクがこの町でトゥーラを演奏するために訪れるという依頼が発生してマメミムとしてはとりあえず魔界とか天界とかほっといてクエストを受注しなければならない。
さて薄い本でも描くか(描きません)。