某月某日。メルサンディにて
観光に訪れた旅人たちがメルサンディで良い景色を探すならば、まずは空を見るべし、と言われている。
そこに冴えわたる青空が広がっていたなら、迷わず村を出て一面の麦畑を堪能するといいだろう。日の光を照り返して輝く黄金色の麦穂が一斉に揺れる景色は、今の時代には得難い代物である。
月明かりが照っているようなら、村の内側に目を向けて、頭上をゆらゆら揺れる松明を楽しむといい。童話の村と呼ばれるこの村にふさわしく、幻想的な光景がそこに広がっているはずだ。
一方、どんよりとした曇り空だったなら、いかなる景色も灰色に染まってしまう。
そんな時は無理に景色など見ようとせず、家に閉じこもって本でも読んでいた方が良いのだ。
正に曇天の本日、私はこれ幸いと宿の中に引きこもり、一冊の本を読みふけっていた。
今日ばかりは「たまには外の景色でも見に行こうよ」というリルリラの催促を気にする必要はないわけだ。
事件らしい事件も起こらず、平和なメルサンディの村では、足しげく歩き回ることもない。のんびりさせてもらうとしよう。
「事件ならあるじゃない。ミニデーモンがまた小麦を盗んだって」
暇を持て余したリルリラが口を尖らせる。
「それは確かに大事件だが、我々の管轄ではないな」
ぺらりとページをめくる。
「他にはね、ウサギを追いかけて女の子が村の外に出ちゃったんだって」
「ほう、ウサギ」
思わず頬が緩んだ。その光景を思い浮かべるに、なんとも心が和むではないか。
「そのウサギが時計を気にしていたかどうか、確認しておきたいところだな。ことによると、今ごろ帽子屋とティーパーティの真っ最中かもしれん」
何しろ童話の村だ。それを不思議とは言わないだろう。
もっとも、村の外には魔物もいることだし、一応事件ではある。が、確認すると、ミニデーモン対策に雇われた冒険者が既に捜索にあたっているとのことだ。
彼らの手腕は一度見せてもらったが、レンダーシアまでやってくる冒険者だけあって、その実力はかなりのものだった。まず、任せて問題ないだろう。
「その件は彼らに任せて、私はこっちを進めさせてもらおう」
またページをめくる。リルリラはため息と共にベッドに寝転んだ。
「お客さん、パン置いとくわよ」
と、パンを運んできた若い仲居が声をかけてきた。私は礼を言うと本を読む手を止め、さっそくその一切れを頬張った。リルリラも起き上がって一切れとる。
香ばしい香りと柔らかい感触が食欲を刺激し、噛むたびにほんのりとした甘味が口いっぱいに広がった。
一流のパン職人が焼き上げた出来立てのパンというのは、それだけでご馳走である。
「真剣な顔で読んでたけど、そんなに面白い?」
少々呆れた顔で彼女は言った。私は苦笑を返した。
メルサンディが誇る大作家パンパニーニ氏の作による小さな英雄の物語。子供のための童話であって、大の大人が眉間にしわを寄せて読むような本ではない。
「初めて読む話だったのでね。興味深い話だ」
そう、確かに初めて読む。
そして私のよく知る物語だった。
だからこそ、多少のことは他に任せて、こちらに専念したいのである。
一つ、また一つページをめくるたびに、私のよく知るストーリーが流れ込んでくる。それはあたかも自分の書いた日記帳でも読み直しているかのような感覚だった。
ため息が流れていく。不可思議な感覚に思考が麻痺しそうだ。
私の知るメルサンディが、かつて勇者姫に説明された通りの代物だとしたら、一応の説明はつく。つまりこの童話が創生者たちのアイデア・ノートになったのだ。
そして予め記された通りに事件は起き、解決した。何の不思議もない。
……よろしい、そうだと仮定しよう。
ならばここに描かれている不思議な旅人の名は、どう説明すべきだろうか?
二番手の英雄と呼ばれ、やがて勇者の盟友となる彼らは、五大陸からやってきた冒険者だと名乗った。ならばこそ、彼らはあの世界における異分子、創生の外側にある存在としてその役割を果たしたはずである。
その彼らの名が予めここに刻まれているということが、ありうるのだろうか?
「パンパニーニは死ぬのが早すぎたな……」
そっと呟いた。彼が生きていれば、何かわかったかもしれないのだが……。
「そうねえ。お話も完結してないしね」
と、まだ近くで作業をしていた仲居が相槌を打った。
なるほど、紫色の空の下では、メルサンディの事件は中途半端な形で終わっていた。
続きが描かれなかったことは、かの村の住人にとって幸か、不幸か……。
謎は渦を巻く。創生の渦を巻く。
風が流れ、濁った空の下に麦穂が揺れていた。