エルトナ大陸の北東部、世界樹を見上げる久遠の森の側に小さな村がある。
学問の里、ツスクル。世界樹の守護者であり、500年の時を生きる巫女姫、ヒメア氏の加護の元、学問にはげむエルフたちの学び舎である。
今、この村は大きな儀式を控え、張りつめた空気を漂わせていた。
花開きの聖祭。世界樹の花が開き、それをもって守護者である巫女姫の使命が終わる。ツスクルの民にとって神聖な儀式である。
だが、晴やかな舞台にも関わらず沈み込む里の空気、そしてらしくもなく、濡れるような影を帯びたリルリラの表情から、私もこれから起ころうとしていることを察せずにはいられなかった。
私がこの里を訪れたのは、リルリラのお供が目的だった。
彼女はこの里で学んだ学徒であり、今では冒険者として各地を旅している。私にとっては相棒のような存在だ。
そんな彼女に、ツスクルで行われる祭りの準備を手伝ってほしいとせがまれ、今日まで、様々な作業をこなしてきた。
中でも大がかりだったのは、スイゼン湿原にそびえるスイの塔で行われる清めの儀式である。今は立ち寄る者もいなくなった地下の古い社を訪れ、祈りを捧げ身を清める。これは聖祭に祭司として携わるため、必要な儀礼なのだそうだ。末席に数えられる程度の彼女であっても例外ではない。
珍しくエルトナの伝統的装束に身を包んでスイの社へ向かう彼女の、私は護衛役だった。
地下水が天井を伝い、ぽつり、ぽつりと滴り落ちる。ひんやりとした空気に身震いしたリルリラは、白衣の胸元をただし、緋袴を震わせながら階段を下りていった。
やがて、立ち並ぶ石造りの灯篭が、地底湖にかかる木橋の幽玄なる姿を、影も色濃く浮かび上がらせた。橋上に延々と連なる古風な鳥居は闇と炎で赤黒く染まり、灯篭の灯と共に湖面に映し出される。なだらかに弧を描いて地下寺院へと続く参道は、まるで見るものを黄泉の国へといざなうかのような、玄妙にして奥ゆかしい風情を醸し出していた。
これがエルトナの美というものだろうか。
圧倒的な神々しさと共に、根源的な暗さもを内包した、朱色の倒錯。その美観。
私はしばしその景色に見惚れていた。いたがために、リルリラが単独先行するのを止めることができなかった。この社は神聖な場所ではあるが、エルトナ古来のアヤカシ、魑魅魍魎の類も数多く生息している。危ういところで駆け付けたが、全く迂闊なことである。
「もう、何、ボーっとしてるの!」
彼女は頬を膨らませたが、彼女の方も、私が後についていないことに気づかなかった。普段はこういうことは無い。こう見えてよく気の付く娘なのだ。
ここ数日の彼女は、ふと気づけば何か考え事をしており、心ここにあらずといった様子だ。それが私の気がかりだった。
袴についた汚れをはたき、彼女は奥へと進む。
鳥居をくぐるたび、思いつめた表情と諦観とを交互に浮かべながら、エルフの巫女は一歩、また一歩、寺院へと近づいていった。灯篭の灯が影と光を巡らし、神秘的な情景を橋上に浮かび上がらせる。ぽつと、ぽつり。地下水の滴る音が地底湖に響いた。
リルリラは淡々と清めの儀式を進行していった。古びた銅鏡に手をかざし、鼓を打つ。観客は私一人。静寂の中に侘しく響く太鼓の音。遠く、遠くへと消えていく鼓の声が、消えきらずに耳に残る。
最奥部の祭壇に向き合い、一礼。
最期に賽銭箱に小銭を投げ入れて仕上げだ。
「何を祈ったんだ?」
私が聞くとリラは胸の内のものを一息でふっと吐き出した後、控えめな笑みを浮かべ、
「全部うまくいきますように」
と、答えた。
それが一巡りほど前のことだ。
今、全ての準備が整い、ツスクルの空気は最大限に張り詰めている。
風乗りの少女が、巫女たちが、学徒たちが一様に静まり返り、社からは巫女姫が美しくも慎ましいその姿を現す。
そして、聖祭が始まった。