クエドの決戦から数日。
カンティスとの長い旅も、ようやく終わりを迎えようとしていた。
最後に……ちょっとした事件を語っておこう。
古代ウェナの英雄、始原の歌姫リナーシェ様が我がヴェリナードを訪れたのだ。
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お忍びとはいえ建国の英雄の帰還とあって、城内は騒然とした。王室が身なりを正し歓待し、護衛の兵士らは緊張に凍り付いた。
歌姫の優しく美しい笑顔がその氷を溶かし清めていったことは言うまでもない。
セーリア様が地上の思い出に、とリナーシェ様をピクニックに誘い、オーディス王子が護衛の名目でそれに同伴した。
私はその更なる護衛役を命じられたのだが……意外なことに、天に帰るはずのカンティスがそれに同行を申し出たのだ。
「いや……天星郷からの来客なら、私も無関係ではないからな」
などと建前を並べていたが、歌姫の微笑みから露骨に目を逸らすその仕草は、どう見ても訳ありだった。
聞けば、件のカンティスの失態……英雄の試練で不正を働いたという現場に、リナーシェ様も居合わせたのだという。
カンティスの欺瞞を一目で見抜いた彼女は、あっさりとその企みを無に返し、優雅に微笑んだそうな。
『この女狐め!』
カンティスは口を極めて罵った。
『魔性の女とお呼びになって』
歌姫はおかしげに笑っていたのだとか……
今、その微笑に目を逸らすカンティスの心境は、火を見るより明らかだ。
それをわかっていて、彼女は何も言わず王子らと談笑にふけっているのだった。
天使の目を盗んで、悪戯めいた瞳が、カンティスの隣にいる私にウインクする。
私は苦笑を返した。
歌姫の微笑が、ウェナの潮風に溶け込むようだった。
私は天星郷で、初めて彼女と出会った時のことを思い出していた。
その美貌とカリスマに瞳を奪われ……しかし同時に、この女性に跪くのは怖いと思った。
心を許した瞬間、その完璧すぎる笑顔が、私の全てを支配するだろう、と。
かつて彼女を妻と呼んだ男が、同じ恐怖にかられたことを私は知っている。
今は違う。彼女の微笑を浴びた私に畏怖も対抗心もない。
何が変わった、と一言で言えるものではないが……
穏やかな波が柔らかくうねり、乾いた砂を静かに潤す。染み入るような安堵感がそこにあった。
セーリア様とオーディス王子はリナーシェ様と語り合い、親睦を深めた。
王子は失われた古代の歌や呪術についても訪ねたそうだが、歌姫はやんわりと断ったそうだ。失われるには失われるだけの理由がある、と。
後に王子は語った。あの思慮深さは、自分には一生手に入らないかもしれない、と。
だが私は知っている。リナーシェ様がこう語ったことを。
「素直に人に頼ることのできる器の広さ。それは王子の一番の資質でしょう」
それは、リナーシェ様が生涯手にすることのできなかった力である。
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ところで……
私には一つだけ、気になることがあった。
それは彼女の夫……ジュレド王ヴィゴレーのことだ。
私はヴィゴレーが彷徨える魂となってこの世に留まり続けていることを知っている。その気になれば、リナーシェ様をそこに案内することもできるのだ。
数百年にわたる因縁に決着をつけることができるかもしれない。
……が、しかし……
それはようやく塞がりつつある彼女の傷を暴くだけになるかもしれないのだ。
「どう思う?」
私に問われ、カンティスはフム、と腕を組んだ。
「正しさが常に人を救うとは限らない、だったか?」
「……そうだったな」
私は肩をすくめた。いつか私が言った台詞をそのまま返された形だ。
真実は一つでなくてもいい。
歌姫がそんな私の顔をちらりと一瞥し、優しく微笑んだ。
全て承知の上なのかもしれなかった。
*
やがて歌姫が天に帰る日が来た。
カンティスは、結局最後まで、リナーシェ様に声をかけることは無かった。どうやら単なる罪悪感以上の何かがあるらしい。
からかう様に肘で打つ、憮然と顔を背ける。
歌姫は私に目くばせして、クスっと笑う。当然のことだが……とっくにお見通し、というわけだ。
「それでは、また上の方でお会いしましょう」
素知らぬ素振りで手を振った彼女は、やはり女狐かもしれなかった。
ウェナの海岸を、マリンスライムが悠々と泳いでいった。
かくして歌姫は天へと帰り、務めを果たした天使もまた聖天舎へと戻っていった。
「大げさに別れを告げる必要もあるまい。ジア・クトとの決戦で、また会おう」
天使と私は拳を打ち付け合う。
私とカンティスの奇妙な旅は、これでひとまずの終わりを迎えた。
……レンダーシアを巨大な影が覆ったのは、そのひと月後のことだった。