「 あなたは、この川を渡れない。
だって、あなたは、そういう人だから。 」
ぼくは、目の前を流れる川を見た。
つるりと光を返す水面は 時間が止まったように穏やかで
この下に水が流れているとは とても思えなかった。
「 でもぼくは渡る。
君の方に行くために、ここに来たのだから。 」
ぼくは、彼女が好きだった。
夫婦になったのは、まったく親同士の事情だったけど
彼女をひと目見て ぼくは彼女の虜になった。
彼女の唇は、血に濡れたように妖しい紅色だった。
まるでぼくに見られるのを拒んでいるように 鮮やかに見えた。
彼女の肌は、透き通るように白かった。
その彼女の肌の向こうには、見知らぬ男の影が透けて見えた。
彼女には、想い人がいた。
結ばれたいのは、ぼくではなかった。
でも、それでも。ぼくは彼女が好きだった。
手放す事はできなかった。
「 いつか、彼女はぼくの事を愛してくれる。 」
そう信じて、ぼくは良き夫であろうと努力した。
たくさん 働いた。おいしい食べ物も、ちょっとした贅沢も、
ぼくは、ぼくの出来る限りの全てを、彼女に捧げた。
だけど、彼女が変わる事は、なかった。
彼女の瞳はいつも
彼女の中に透けて見える ぼくの見知らぬ男の影だけを追っていた。
でもぼくは、彼女を愛し続けた。
壊れながら、届かない彼女を追い続けた。
ある日、彼女は冷たくぼくに告げた。
「 もう、無理をしないで。 あなたは、私に届かない。 」
そんなの、わかっている。 気付いている。
だけど、ぼくは君を愛しているんだ。 他の誰よりも深く!
「 あなたは、わたしを好きなのではなくて
わたしを好きなあなたの事が 好きなのよ。 」
ぼくには、彼女の言葉が呑み込めなかった。
呑み込むのが怖かった。
「 でも、あの人は、わたしの事を見てくれた・・・ 」
彼女は、紅い唇を小指でなぞった。
「 この唇は、彼のもの。
だから、あなたは怖くて触れられないのでしょう? 」
ぼくは目を閉じ
喉の奥に引っ掛かっていた 彼女の言葉を呑み込んだ。
閉じた瞼は苦しさを消してくれなくて
ただただ、涙ばかりがこぼれた。
目を開けると、ぼくの足元には血にまみれた彼女が横たわっていた。
そしてぼくの手には、彼女を殺めた凶刃が握られていた。
ぼくの前に横たわる、静かな川。
この川を渡れば、ぼくは、やっと彼女に届く。
ぼくは、おそるおそる水面に足を近づけた。
真上から見下ろした水面は ちらちらとした光の反射を失い
ふっと真っ黒に染まった。
触れたら、この黒い川はぼくを呑み込むだろう。
そうか、この川は。渡るのではなくて、
命を呑まれる事で向こう岸で行くのか。
でも、恐怖など、微塵も無い。
「 君の方に行くために、ここへ来たのだから。 」
ぼくは、真黒な川の水面に、足を付けた。
死ぬのは怖くない。
でも、この黒い川は、彼女の立つ岸へとぼくを導いてくれるのだろうか?
川に呑み込まれる瞬間、ぼくの頭の中に、見知らぬ男の黒い影がよぎった。
結局、川に入った夫が彼女の前に姿を現すことは無かった。
「 渡れない、と言ったのに。 」
彼女は、かつて夫が立っていた向こう岸に目を遣った。
「 だって、渡れなかったのは、
あなただけでは無かったのだから・・・。 」
透き通った彼女の頬から、大粒の涙がぽたぽたと流れ落ちた。
☆彡 お時間あったら、過去日誌もご一読プリーズ (^_-)-☆
☆彡 「隠世(かくりよ)」と「隔(かく)虜(りょ)」をかけてみました
☆彡 届かないからこそ「想う」のかもしれませんね。