ハクギンは41年前、崖から落ちた後に、しわがれた女の人の声を聴いた。
「もう一度、両親に会いたいかい?」
目の前に垂らされた蜘蛛の糸の如き蠱惑的な言葉に、ハクギンは何も考えずに頷いた。頷いてしまった。途端、ゆっくりとした浮遊感に囚われていたハクギンの魂は、錘を付けられたかのように地に落ちた。それから目覚めるまでの一年間と同様、今ハクギンは真っ暗な闇の中に一人蹲っていた。
ぎゅっと強く瞳を閉じていても、何も聞きたくないと耳を両手で塞いでいても、老人の声が聞こえ、ハクトの驚いた顔が見え、そして何より、40年前に村の人々を、父を母を引き裂いた感触が、SB-03以外のSBシリーズとも経験をリンクされたことによりハクギン自身の行動として生々しく残っている。何も望まなければよかった。後悔してももはや取り返しがつかない。そして今、機械の体を通して垣間見える外の世界。手術台に縛り付けられたハクトの姿がある。助けたい、と思う。だが、血塗られた自分にはその資格がある訳がない。それよりなにより、自分がハクトを殺してしまう可能性すらあるというのに、随分と滑稽な事を考えたものだ。
陰鬱な思考の泥沼に囚われているハクギン。もはや駆動システムと切り離され、ピクリとも動かせない作り物の体の眼前で、モニターに映されたハクトが呻き声とともに目を覚ます。
「うっ、くさっ」
立ち込める濃厚な玉葱の香り。ハクトは起き上がろうとするも武骨なベッドにガッチリとその手足を拘束されている。ひとしきり手足をばたつかせた後、一旦拘束を解くのは諦めて辺りを見回し、頭上の異形に気付いてギョッとする。
「こいつは…アームライオン?」
父マージンの蔵書の中でのみ目にした事のある、通常のライオンの4つ脚に加え、ケンタウロスの如き上半身に4本の腕を持つ凶暴なモンスターだ。時折口元から気泡を漏らすそれは、巨大なガラスケースの中で薄黄色の溶液に満たされていた。眠っている様子にほっと胸をなでおろしながら、ハクトはある事に気が付く。ケース内のアームライオンには、腕が3本しかないのだ。右上腕にあたる肩口には、鋭利な刃物で切断した痕が見て取れる。
そしてそのすぐそばの鉄製のテーブルに、異臭の元凶と思われる黄ばんだ布で包まれた細長い何かが安置されていた。
「お目覚めかね?」
ブウン、と鈍い音を立て、巨大スクリーンに老人の顔が浮かび上がる。老人の傍らにはSB-03が姿勢正しく立っていた。
「安心したまえ、何もせんよ、ワシは、な。さてまずは、お前さんには感謝をせねばなるまいな。おかげで長年の悲願がかなう」
何やら機械を操作しているのか、老人の言葉にはカチャカチャと何かを小刻みに叩く音が混じる。
「ワシはな、神にも匹敵する力を手に入れたいのじゃよ。SBシリーズもその一つだが、そいつらは軍隊として機能するものだ。個々の力は大したものではない。ワシが手にしたいのは、圧倒的な個の力」
ハクトにとっては迷惑な話でしかないが、老人はよほど今日この時を待ち望んでいたのだろう。饒舌にこれまでの苦労話を続ける。ハクトもまた、現状を打開する鍵がないものか、老人の言葉や部屋の様相を必死に捉え漏らすまいとした。
「500年前、偶然にも破壊神と謳われるシドーなる邪神の腕が手に入ったことは僥倖だった。しかし、あの規格外のサイズと生命力。腕だけで生物として行動し、制御の為に他の魔物に移植しようにも、養分として即座に吸収してしまう始末。故にワシは一計をめぐらしたのだ」
当時の屈辱を思い出してか、感極まりぽろぽろと涙を流し始める老人。
「本来であれば片時も離れたくなかった大事な腕を野に放ち、冒険者の手によって弱体化を狙ったのじゃ。先までの実験で、世から消し去ることは不可能とわかっておったからの」
500年前に起こった出来事を、さも自身の経験のように話す老人に違和感を覚えながらも、すっかりハクトは過去の顛末に興味をひかれ、聞き入っていた。
続く