赤く濁った液体を満たした巨大な水槽を見上げ、紅衣に身を包んだ男はほくそ笑む。
部下の手を借りばら撒いた種はさっそく芽吹き、少々想定外の結果ではあったが、アカックブレイブとカンダタから吸収した生命力が水槽内に注入されていくのが見て取れる。
しかし、主の目覚めにはまだ到底足りない。
水槽の中の未だ虚ろな主の白い瞳をしばらく見つめたのち、男は折り重なる悪夢の間で次なる準備にとりかかる。
そうして今宵もまた、望まざる死合の幕が開く。
「………ほぅっ」
「ひゃあっ…!!?」
不意に背後から左耳元へ艶めいた吐息を吹きかけられ、はからずも変な声を吐いて甲冑に身を包んだ少女は飛び上がった。
「戦場であれば死んでいたぞ。常在戦場、意識を絶やすな」
「はっ、はい!…って、ここ、何処?」
背に立つ女性に絡みつかれているため自由の効かない中、辺りを見回すが、皆目、今いる場所に検討がつかない。
「状況把握も遅い。順番も違えている。先ず確認すべきは地だ。繰り出すに足る足場さえあれば、地獄であろうとお前の技は用をなす」
「はい!!」
叱責するようでその実、優しく諭すような口調。
流麗に響くその声に、少女は聞き覚えがあった。
というよりは、その声を忘れようはずもない。
「ふふ、いじめるのはこのくらいにしようか。なぁに、気にするな。ここは私とお前の愛の巣だとでも思え。…息災にしていたか?いなり」
「…えっ…私の名を…」
突っ込むべきポイントを随所に含む発言だったのだが、遥か雲の上の人物、自分の事など歯牙にもかかっていないだろうと思っていた相手から唐突に名を呼ばれ、指摘されたばかりだというのに警戒が抜け落ちる。
「ダンノーラでの模擬戦の折、見事な動きだった。もちろん覚えているとも」
いなりの腰に添えられていた左腕はもはや抱きしめるというレベルまで力が込められ、空いている右腕は首、肩、腕といなりの身体を確かめるように這いずり回る。
今まさにいなりに絡みついている女人、かげろうとは数多い参戦者の一人としてであるが、直接剣を交えたこともある。
カミハルムイ随一の名家の出であるかげろうとは比べるべくも無いが、いなりもまた御庭番を抱える程度の家柄である。
その縁もあって、度々遠くから偲ぶようにではあるが相見える機会に恵まれたいなりにとって、かげろうは彼女に倣って二刀に転向するほどに憧れの存在であった。
「しなやかで実によい筋肉だ。よく鍛練したな」
かげろうの立ち位置からして、いなりが秘密にしている出自をきっとかげろうは悟ったことだろう。
ちょうど息を吹きかけられたあたり。
そこにはエルフ種族にはありえない、いなりが特別な混血の子である証の竜鱗が顕現していた。
その上で、今の強さが遺伝や種族的優位でなく、いなりの努力の賜物であると認められたことに、いなりの胸はときめく。
しかし、残念というべきか、光栄に思うべきか。
「さぁ、王が待ちくたびれている。始めようか」
かげろうがそっと背から離れる。
鈴を鳴らすような鞘走りの音。
振り返った先で、かげろうは両手に刀を抜き放っている。
「その胸、お借りします」
これは王に命を捧げる御前試合。
遥かに格上だろうと、憧れの相手であろうと、その首をとらねばならない。
(…王…?ニコロイ様?いや違う…一体誰のこと…?)
ねじ込まれた思考に一瞬疑問符が浮かんだが、それはすぐに雪崩に呑まれるように意識からかき消えてしまう。
愉悦に笑うかげろうの剣を、いなりが刀を抜きざまに逆手で受ける形で戦端が開かれた。
続く