「ぐッ…うう…やってくれる…」
イルマは教会の2階窓から放り出され、受け身を取り損ねて強かに背中を打ち付けた。
敵の拳を受けたとて、万全のイルマであれば落着までに如何様にも整えようはあった。
しかし、ヒッサァの必殺の拳とともに叩き込まれた陽の氣が体内を駆け巡り、体内の呪炎を活性化させてしまった。
身体のそこかしこから黒紫の炎がまろび出る。
(…呼吸…呼吸を整えろ…あのときの痛みは…こんなもんじゃなかっただろう…やれる…やれるはずだ…師匠の教えを思い出せ…)
拳の衝撃で破れて露出した胸元に視線を落とせば、肌を貫き、歪な五芒の星を結ぶ赤い石片が目にとまる。封印が破れたわけではない。
「長い付き合いなんだ…言うことを…聞けっ!!」
言葉など通じる筈もないが、吐き捨てて気を込める。次第に肌へと飲み込まれるように消えていく呪炎。
この身に厄介な同居人を宿すきっかけとなったあの夜はもう、十年以上昔の事になる。
父も母も知らない。
唯一の名残は、首から下げた満月のペンダントのみ。それでも、生活を共にする孤児の友人たち、そして、イザベラ先生がいれば、何も寂しいことはなかった。
しかし、滅多に入らぬ牧師としての仕事、それとわずかばかりの近隣からの寄付だけでは、生活は成り立たない。
加えて悪い事に、教会の土地が高級住宅地構想に巻き込まれ、子供たちの生活を守るためのわずかばかりの借金が、目をつけられた。
法外な利子を上乗せされ、昼夜問わず押しかける柄の悪い男たち。
悩み苦しむ先生の背中をただ見ていることしか出来なかったイルマに、ある夜、ペンダントが囁やきかけたのだ。
その日も深夜を狙って、怒鳴り声とダンダンと扉を叩く音が鳴り響く。
地上げ屋の嫌がらせだ。
寄り添いあって毛布を被っていたイルマの耳に、しわがれた声が飛び込んだ。
『ほら、その亀裂に爪を刺せ…力を貸してやる』
見ればペンダントが怪しげな輝きを放ち、わずかに浮き上がっている。
如何に子供とて、胡散臭さに気が付いたはずだ。
だが、連日の嫌がらせで寝不足とストレスに苛まれていた幼いイルマは、甘い囁きに従ってしまった。
ペンダントのヒビに爪を引っ掛けると、卵の殻を割るようにポロリと割れて欠片が散った。
ぽっかりと空いた穴から影が飛び出しイルマの指を鷲掴むと、そのまま手の甲、二の腕と、這い上がるようにずるずるとペンダントから闇が滲み出る。
やがて影は封印から完全に抜け出すと、ありもしない関節を解きほぐすように首と肩を回した。
『ああ…何年…いや…何百年が経ったんだ?』
「…あ…ああ…」
夜の暗闇よりもさらに深い漆黒の影。
御伽話の願いを叶えてくれる魔人とは大きくかけ離れた醜悪な姿に、イルマはとんでもないことをしてしまったと我に返るが、もう遅い。
『さて、まずは願いを叶えてやろうなぁ?』
血管のような赤いラインが走る瞳があるのみののっぺりとした顔ながら、それが堪えきれない愉悦に歪んだのは子供の目から見ても明らかだった。
蛇のように床に張り付いて影は扉の方へ去っていく。『礼を言う。お前たちのお陰で封印が綻んだぞ!悪意は最高の御馳走だ…ケヒヒッ…ケヒヒヒヒヒヒッ…!!』
悲鳴を上げる間もなく、嫌がらせに来ていたあらくれ二人は、影に心臓を貫かれ絶命した。
溢れ出るはずの鮮血はしかし、その遺体諸共にズブズブと影の中へ沈む。
外からけたたましい嘲笑が鳴り響く中、イルマはペンダントの穴から更に何かが飛び出そうと、内側から残る破片を押し上げている事に気が付き、必死にペンダントを戻そうと欠片を掻き集めていたその時、ペンダントから地獄が吹き出した。
爆発を起こしたように迸った呪炎は周りで震えていた子供たちを呑み込み、あたりを一面の焼け野原に変える。
自身の胸にも矢のごとく炎が突き刺ささり、衝撃で仰向けに倒れたその掌から5つの欠片が宙に舞う。
意識が薄れていく中、あらくれ共が入って来ぬよう、扉の閂を抑えていたイザベラが、こちらへ走り寄って来るのが見えた。
早く逃げて、と紡ごうとしたが、声にならない。
意識が途絶える狭間、背後から襲いかかった影の爪が、先生を貫き、呆気なく先生は地に倒れた。
イルマの絶叫が響き渡る中で、イザベラの命を奪った影が何やら聞き取ることの出来ない言葉を呟くと、その姿は見る間にイザベラ先生のそれへと変化していく。
見慣れたイザベラ先生の顔が、にぃんまりと邪悪な笑みを浮かべた所で、幼いイルマの意識は闇へと落ちたのだった。
続く