こういうことを虫が騒いだというのだろうか。
店の食材の仕入れに向かう道すがら、予感のようなものに導かれ脇道にそれた『虎酒家』の女主人ミアキスは、僅かな黒ずみのみを地に残し焼け果てた教会の跡地で、奇跡的に息のある少女を見つけた。
しかし、その胸で燃える黒紫の炎は、それを取り囲むように突き刺さった赤い石のカケラに辛うじて押し留められているようだが、ごくごく僅かながら拡がりを見せている。
「…まあ、やるだけのことはやるかね」
拳の秘伝は門外不出。
しかしミアキス自身、師範代まで上り詰めながら、道場を飛び出した身である。
「素質があれば、生き残るだろうよ」
だらりと弛緩した左手を握り、ミアキスは少女の身体にあらん限りの気を注ぎ込んだ。
あとから聞かされた話では、保護された幼いイルマは、搬送されたミアキスの店の二階で、一ヶ月に渡り意識を失っていたらしい。
階下から漂う炒飯の香りに目を覚ましたイルマを待っていたのは、厳しい修行の日々だった。
イルマの体内では、依然、呪いの炎が燃えている。
たった一人、灰にならずに生き延びたのは、偶然か必然か、胸に刺さったペンダントの破片、巨星のカケラが炎を抑え込んだのと、たまたま通りがかった女傑、ミアキスが、特殊な武道の心得を持ち合わせていたからだ。
体内の気の巡りと氷の魔力をミックスし放つ、『氷拳』と呼ばれる武術。
今は定期的にミアキスから気を送り込んでもらい炎を抑えているが、イルマの成長に合わせて必要となる気の量は増えていくし、ミアキスとて、とうに現役を退いた武闘家であり、さらには『氷拳』に関しては本人曰く噛じった程度に過ぎない。
イルマ自身が『氷拳』をマスターし、炎を克服する必要があったのだ。
幸いにも、イルマには武術の素養もあり、何よりも、強くならなければならない動機があった。
時は戻り、深夜の虎酒家。
ミアキスは、まだいくらか若く体型もほんの僅かばかりスマートな自分と、幼いイルマの写った写真を眺めている。
飄々とした笑顔の自分に対し、イルマの瞳は歳不相応に冷たく鋭い。
ついぞ、ミアキスが消してやる事の出来なかった憎悪と殺意が、そこには渦巻いていた。
「………よくここにまた顔を出せたもんだよ。それにしても、何て様だい」
油が乾き、軋みを上げて開いた扉の向こうに、イルマが立っていた。
ボロボロのマントで覆い隠した身体。
抑えるのがやっと、未だあちこちからちろりと呪炎が顔を出している。
「ところで、あんたが先に来たって事は…一応聞いておくがイルマ、あのオーガの優男、まさか殺したんじゃないだろうね?」
「…あの男はやはり、師匠の差金でしたか」
明確な解答はない。
しかしイルマの呼吸と気の流れから、ヒッサァは無事であろうとミアキスは悟った。
「家出したバカ娘の居場所がわかったらそりゃあアンタ、連れ戻したくもなるだろう?」
いずれ独り立ちする日の為に教え込んだ世渡りの術も仇となり、イルマの行方はこの数年、ようとして掴めなかった。
であれば、目的の方から追えばいい。
幾度も悪夢にうなされるイルマの汗を拭ってやるうちに聞いた、『イザベラ』という名前。
僅かな手掛かりを、常連客の中でも信を置ける相手に託した。
しかしてイルマを見つけるという目的は果たしたものの、ヒッサァは、イルマがイザベラに憎しみを抱く理由という、皆目検討のつかない謎を抱える事となる。イザベラ達を招いたのは、それを見極める為でもあったのだ。
ヒッサァが音信不通となった為、思いもかけず長期滞在となった子供たちを飽きさせないように、今日は『虎酒家』の二階で一行を預かっていた。
イルマもそれを嗅ぎ付けてやってきたのだろう。
「…師匠、退いてください」
「退かないと言ったら、どうするね?」
「貴女を、傷付けたくはないんです」
よろめく身体に鞭をうち、イルマは構えをとった。
「傷付けるって?アタシを?アンタが!?命も取れない仔猫が大きく出たもんだねぇ!!」
それでもミアキスは椅子に腰掛け頬杖をついて、無防備な背中を晒したままけらけらと笑った。
ダンッ、と強く床を蹴る音が響き、マントが宙を舞う。
完全に虚を突いた筈だった。
気絶させる為にミアキスの首元を狙ったイルマの拳は空を切り、避けるついでに跳躍したミアキスは空中で反転すると天井を蹴ってイルマに向かい突進する。
扉を吹き飛ばし、両の腕を抑え付けてイルマに伸し掛かるミアキスの姿は、まさしく獲物を捉えた虎のそれであった。
続く