そして、すべての決着が、つこうとしている。
「なんて…夜だ…」
ひっそりと逃れた影の一体は、這う這うの体で木にもたれかかった。
偶然にもこの影は長らくイザベラとして活動していた個体である。
忌々しい封印が解かれ、ようやくのことで身体の主導権と正しい記憶を取り戻したと思ったら、早くも本体たる漆黒の太陽は打ち砕かれてしまった。
封印とはわけが違う。
こうして惨めにヒッサァから逃げてはみたものの、本体を失ったうえ、他の2体を盾としそれでも抜けてきたヒッサァの拳を受け腹部に大穴が空いている。
朝を待たずしてこの身は虚しく消え果てるだろう。
「…うぐ…ぬぅ…だ…ま…れぇ…」
既にその影響は顕著に現れており、脳髄を掻き回す無数の声に頭を抱える。
レオナルドともイザベラとも、その他これまでに姿を模した多くの相貌と記憶が入り混じり混濁する意識の中で、理不尽な願いだけを保ち闇夜を進む。
ただでは死なない。
一人でも多くの道連れを。
「させねぇよ、クソ野郎」
そうして子供たちの眠る虎酒家を視界に捉えた影の前に、やはり這う這うの体で木に寄りかかるイルマが立ち塞がった。
万が一を考え、行動を予測し先回りしていたイルマだが、もはや氷拳の一発も繰り出す力は残されてはいない。
それ故の最後の一手、握った拳の指と指の間には、胸から引き抜いた巨星のかけらがそれぞれくいしめられている。
かけら同士の五芒の均衡が崩れ、体内に封じられていた呪炎が勢いを増し、黒々しくも煌々とあたりを照らす。
その炎に我が身が焼き尽くされる前、もはや倒れ込むように、破邪の力のこもったかけらを拳ごと影に捩じ込んだ。
「ぐげえぇぇぇ…ッ!」
体内から闇を祓われ、影はばちゃばちゃと液体の如く身を散らしてもがき苦しむ。
「こんな…終わり………あはぁ…お前も俺の炎に焼かれて仕舞いだぁ…せめて…苦しみやがれ…」
断末魔の悪足掻き、最後に心をかきむしってやろうと、影は再び、イルマの最愛の人を象る。
「…せんせ…い…」
噴き出した炎はあたりに燃え広がるが、この木立は虎酒家をはじめ、民家とはまだ距離がある。
届く前に、ハクトやヒッサァが何とかしてくれるだろう。
影の企みとは裏腹に、もう一度見つめることのできたイザベラの顔を前に、イルマは穏やかに意識を失った。
やがて、ずるりと身体が引き摺られる感覚とともに、イルマは薄っすらと目を開く。
「あなたを…死なせはしない…」
イザベラの声が、耳朶をうつ。
炎の熱で朦朧とする意識の中、あの日の記憶と、今が重なった。
あの時も、炎の海の中、身動きの取れない自分を、こうして外へと運び出してくれたのは、やはりイザベラ先生だった。
その時も既に、勿論イザベラは本物ではなく、魔物の吸い上げた記憶の産物である。
イルマが爪でこじ開けた程度では封印はすぐに戻ってしまい、本体をあらためて封印されて薄れた魔物の意志が、イザベラの子供を護りたいという最後の強い感情に押し込められた結果の、残酷なロスタイムにすぎない。
不安定な状態故に過去の記憶も途切れ途切れとなり、その後、助けたイルマのことはおろか、自らが死んだ事すらすっかり忘れて、魔物の身体を引きずり今日という終わりに辿り着いた。
イザベラはとうの昔から、既にこの世に居ない。
それでも、今日までの日々、子供たちを愛し愛されたイザベラの姿は、確かにこのアストルティアにあったのだ。
焼け落ちる木立から、転げるように二人は逃げ延びる。
互いに地に倒れたまま、イザベラ大きく立派に育ったイルマの頬に手を伸ばした。
そこに残る古い火傷の痕を、輪郭がふやけ半ば溶けかけた指先でそっと撫でる。
つらかっただろう。
苦しかっただろう。
影がイザベラの記憶を持つように、今のイザベラもまた、影の記憶を共有している。
あの泣き虫で、引っ込み思案だった子が、こんなにも…。
これまでのイルマが辿ってきた道を思い、哀しみが込み上げる。
しかし涙を流す暇もなければ、時間もない。
最後の力を振り絞り、イザベラは影の持つ権能を逆に自らのものとして、イルマを焦がさんとする胸の炎を貰い受けた。
『これからはちゃんと、貴女の人生を生きて』
その言葉は、声にならなかった。
既にイザベラの脚から胸下までは、すっかり消失している。
それでも、子供の頃にすっかり戻ってしまったように泣きじゃくるイルマが、明日からはしっかり歩いていけるよう、イザベラは最後、柔らかに微笑みかけて、光の粒子となって消えた。
続く