かたく閉じられたヤマのまぶたから、涙がにじみ出る。
らぐっちょがお祓いにあたり垣間見た白姫に訪れた悲劇を語っていた頃、ヤマもまた深い眠りの中で夢としてそれを体感していた。
かつて白姫が幽閉されていた地下の一室は、はるかな時を経た今も、かろうじて空間を保っている。
ここならしばらくは、天魔の目も欺けるだろう。
安らかに眠るヤマの寝顔の向こう、憑依している白姫を愛おしげに見つめ、少し乱れた髪を歪な掌でそっと整えると、昏睡している相手に届かぬとは知りながらも頭を垂れ、男は巻き込んでしまった事をオーガの娘に無言で詫びた。
ヤマの頭から伸びる4歩の角。
亡骸の一部から出来た装束をまとったからだけでなく、同じくオーガとして奇異なる者同士であることが災いして、意識が深く繋がってしまったのだろう。
とはいえそれも、あと少しのことだ。
彼女の魂を化物に変え現世に留めていた激しい怒りと怨みの念、それは今や綺麗さっぱり祓われている。
この深い眠りは、旅立ちの前兆だ。
あと一日か、二日か、彼女は遠くないうちに光の河へ帰るだろう。
しかし、さぞかし名高い神職の手によるものだろうか。
我が身では終ぞ、せめてその怒りも嘆きも呪いもまとめて抱き締め、うなされ続ける彼女と共に眠ってやることしか出来なかった。
仇とまったく同じこの姿も災いしたと言い訳をしたところで、想い人に何千年と悪夢を見せ続けてしまったのだ。
不甲斐ないことに変わりはない。
床とはとても呼べぬ岩肌に腰掛け、男はあの日を想う。
この先は、あまりの怨嗟に塗り固められ、らぐっちょをして、垣間見る事の出来なかった物語。
…
……
………
吹き荒ぶ吹雪の音に目を開く。
自らの胸の鼓動を感じないのは、吹雪のせいだけではない。
ちょうど心臓のあたりはぽっかりと穿たれ、代わりに氷が詰まっている。
そんな状態でも意識が戻ったのは、天魔と交わった影響か。
しかし、ぐるぐると頭の中を渦巻いていた天魔の声は聞こえない。
すっかり猛禽類のように成り果てた爪の生えた手をつき、立ち上がる。
まず目についたのは、地を穿つ大穴だ。
覗きこむもかなり深く、果てがようとして窺い知れない。
そして彼女の姿はおろか、天魔の死体も見えない。
心臓があれば、早鐘のように脈打ったことだろう。
不安を振り払うように彼女の集落へと急ぐ。
集落を囲むように渦巻く吹雪を掻き分けると、その様相はすっかり変わり果てていた。
まともに残る民家など一つもない。
そして、そこかしこに鮮血の花が乱れ咲いていた。
どうして、こうなった。
ゼキルの聖杭がこの身に刺さった時、天魔よりも先に意識を手放してしまった。
それ故に、仕損じたのか。
しかし、居並ぶ死体は天魔によるものとは思えない。爪や拳による傷は一切無く、誰も彼も、四肢と心臓を氷の柱が貫いていた。
氷柱に纏わる凍りついた血の様相を見れば、心臓は最後とし、足から一本ずつ、順繰りに突き刺していったのだということがわかる。
出血の様相、恐怖に歪んだ表情からして、全員を拘束した後に、一人一人処刑していったのだろう。
こんな惨たらしいことを、一体誰が…
最悪の答えは、すぐに目の前に現れた。
迸る圧から感じる魔力は、天魔を遥かに凌ぐ。
真紅に染まった瞳は、獣の如く細く尖った瞳孔をたたえ、指先には指の長さを遥かに上回る鋭い爪が生え出ている。
額の一本角はもとより長さを増し、赤く血走っていた。
天魔を封じたとておさまるはずのない憎悪と悲しみはその身に宿る魔力と混じり合い、白姫の身を魔物へと変えてしまったのだ。
この地獄が顕現したかのような光景は全て…彼女の手に…よるもの………
「嗚呼…嗚嗚呼…!!!」
嘴に変わった男の口から、言葉にならない慟哭が漏れる。
その嘆きの声に釣られ、ゆらりともはや天魔そのものと化した男の姿を振り返り見て、白姫は怒りと憎しみを新たにする。
どうしてだ。
どうしてこうなった。
ただ彼女が生贄として命を落とすこと無く、ただ安らかに暮らして欲しかった。
その為なら、己がどうなろうとどうでも良かった。
ただ、それだけだったのに。
隣接する部族の者が異変に気付き集落を訪れた時には、全てが終わっていた。
相討った、と言うは相応しくない。
相手を愛おしみ、これ以上の凶行に及ばぬようにする為に、半鳥半人の化物は白き鬼を優しく抱きしめて石のように硬化しており、引き剥がせぬほどに組み付いた二人は諸共に埋葬され、そこには小さくささやかな祠が建てられたのであった。
続く