幼き頃に目標としたのは母イサナの剣だった。
まみえる事はかなわぬも、今現在、師範代となったいなりと比べてもなお技量に確かな隔たりのあるイサナをして化け物と言わしめる祖母フツシの剣にも敬意を抱いている。
しかし目標が塗り替えられるのは一瞬だった。
ある時、いなりはかげろうの剣に出会い、一目で心奪われ斬られてもよいとまで惚れ込んでしまったのだ。憧れのあまり、長太刀から二刀に持ち替えたときには、そういうミーハーなところはあいつに似たのかとイサナに揶揄されたものである。
その憧れ、遥かな高みを直接に目の当たりにすることとなった、かのダンノーラでの船戦。
ニコロイ王に仕える名家、腕自慢の流れ者、出自を問わず一端の剣士であれば参加を許される交流試合において、いなりは初めて憧れの人と剣を交えたのだ。
組分けも何もない、出逢う全てが敵というルールでありながら、いざ蓋を開ければかげろう一派対烏合の衆という図式と相成った。
当然だ。
刀を握ったかげろうを見て戦慄を覚えぬ阿呆はいない。
厄介な相手から徒党を組んで潰す。
かげろう側に着くは僅かな彼女の御庭番のみともなれば必然の流れである。
しかし敵の敵は味方というが、とどのつまりは敵である。
足並みが揃うわけもなく、近寄る側から足場となる無数の小舟より蹴落とされ、払われ、飛ばされて、見る間に数を減らしていく。
荒波に揺られる舟上を陸と変わらず飄々と歩きながらである。
形勢の不利と見てかげろうの側に鞍替えするつもりか、背後から飛来した鎖分銅を僅かな動きで躱し、伸びた鎖を引っ掴んで主を引き摺りあげ、そのままに今かげろうが足場とする舟の船尾に叩きつける。
バランスを崩し大きく持ち上がった船首、しかしそこにかげろうは不遜に微笑み、やはり欠片も隙なく悠然と立つ。
これまで抜いたは一本のみ。
今日この場に、二刀を振るうに足る相手は居ないということか。
いや、抜かせてみせる。
船首が再び着水する際の柱のような飛沫を隠れ蓑に飛び掛かる。
スッとその水柱を斬り姿を見せるかげろうの白刀を守りの左、逆手に受け止め、攻めの右から縦に振るえば、狙いの通りにかげろうはずっと鞘に納めたままのもう一太刀を抜き、それを受けた。
「良い。…だが、惜しいな。そうではない。そうでは、ないだろう?」
ギリと刀が噛み合ったは一瞬。
ニィっと微笑んだかげろうの表情に戦慄を覚えて、たちどころに船首を蹴ってまた別の舟に飛び移り、着地のついでに先客を斬り伏せる。
背筋に走る悪寒に従い、振り向かずまた跳躍。
満を持して更に三舟を経由し飛びさまにくるりと身をよじれば、しかしピタリと後を追ってくるかげろうに肉薄されていた。
「………一意専心、か」
空中でミキリと鳩尾に刀の柄頭をめり込ませられたと同時にかげろうから送られた言葉を反芻する。
「はい?」
そう、今は講義の真っ最中であった。
気を散らした申し訳無さを髪を掻いて紛らわせながら、今この段であの言葉を思い出した意義を考える。
正直に言えば先の立ち合い、他の門下生同様に一撃で終わらせるつもりであったが、果たしてユクは見事に受けてみせた。
更には2撃目も、である。
これは一つの才覚であると同時に、二兎を追っては伸ばせぬものでもあると知る。
刀には握る者の本性が映る。
今日の生徒、ユクの職業は占い師だという。
なるほど相手を良く見てから動くからこそ、あれ程に堅い護りをなせたのだろう。
そしてそれは攻めを意識すれば思考のリソースが割かれ、成立しなくなる。
人生は有限である。
セオリーを考えれば、長所をひたすらに磨き上げるべきだ。
反して目下最大の強みを捨てた先に、得るものがあるのかどうかなど、わからないのだから。
しかしそれでも私は二刀を、憧れを追うことを獲った。
ユクにもまた、思う所があっての決断なのだろう。
「面白い…」
この先、ユクの剣がどう化けるのかが楽しみになると同時、あの時のかげろうから送られた一意専心という言葉、母に見透かされたように、かげろうにも二刀が己の最大の得手でないと見抜かれたのは勿論のこと、もしかすればかげろうを模倣してのものであるとまで見透かされていたのではないかと思い至り、いなりは赤面する。
大成するか、凡庸に終わるか。
若い女剣士たちの行く末は、それこそ占った所で判らない。
だからこそ、剣の道は険しくも面白いのだ。
~完~