「ん~っ、痛たたた…何だかいつもより余計に染みる気が…」
すっかり鬼気の抜けた声が湯けむりに反響する。
稽古を終え、汗を流すいなりとかげろうの姿がいなり家の浴室にあった。
決め手となった脳天への一太刀の他にも、掠めた斬撃は数が知れない。
いかに竹刀とはいえ、腫れあがり赤みを帯びた肌に湯が噛み付いて、いなりは眉をしかめる。
普段とは違う、湯に溶け込んだ柑橘の酸が刺激を増しているのだ。
「…良い香りだな。そうか、もうそんな時節か」
今日は冬至、太陽の位置が1年で最も低くなり、日照時間が最も短くなる日。
裏を返せば、明日からゆるり、気候は春へと傾き始める。
そんな日に、欠かせない風習がある。
今日の湯舟には、冬至を境に復権する太陽を比喩するまんまると実ったふくよかな柚子が四つ五つと浮かんでいた。
冬至と言えば柚子湯。
柚子湯には、旬を迎え強まった柚子の香りで邪気を払い身体を清める意味合いと、柚子は収穫に長い時を要することから大願が成就するようにとの願いが込められている。
「さらに筋が良くなった。会わぬうち、またいくつか…良い修羅場を越えたようだな」
いなりに続き、かげろうも隣に並び肩までしっかり湯に浸かる。
「………そう、でしょうか?」
気休めを言わぬ相手とは知っているが、どうにもいなりには実感がわかず、湯の中で膝を抱く。
いなりもまた、一流をとうに超えている。
そこからの成長は、鍾乳石が育つを座して眺めるに等しい。
まして自分では、なかなか気付けるものではないのだ。
しかし竹刀とはいえ刀を交えれば、いなりの太刀筋は言葉以上に雄弁にかげろうへその進化を物語る。
今日の立ち合いを反芻すれば、かげろうはどうにも愉悦に緩む頬を押し留められなくなる。
「…くふっ」
アストルティアで唯一、いなりの成長を直に味わえる立場にあるのだ、笑いの一つもまろび出ようものである。
「…あっ、何笑ってるんですか?」
「別に、何でもない」
「い~や、絶対何か良からぬことを…」
今さら締まらぬ表情、そっぽを向いてうそぶくも、いなりは看破しようと回り込んでくる。
「何でもないと言ってるだろう」
このだらしなくにやけきった顔を、けして見せられるものか。
「ぶわ…っ!?」
なかなかの勢いで頭から湯を浴びせられ、いなりは思わずバランスを崩しもんどりうって、ばしゃりと水柱が立ち昇り、柚子の香が乱暴に広がる。
「やったな、このっ!」
敬意とは衣服や振る舞いの上に成り立つもの。
つまりこの浴室内は無礼講である。
かしましい二人の声は、やがて食事の準備が整い呼びに来たオスシに呆れられるまで続いたのであった。
~完~