「おい待て!…ちっ」
けたたましい音に出鼻をくじかれ、つんのめっている間に、槍使いの気配は消えていた。
走り寄る笛の音の主が持つ提灯があたりを照らすも、槍が穿った地の底まで続きそうな深い穴が残るばかりだ。
消化不良にもほどがあるが、かげろうは唇を尖らせ、仕方なしに刀を鞘におさめる。
「お怪我は…って、かげろう様!?」
「いなり。そうか、今日はお前が夜廻りだったか」
市中の警らもまたカミハルムイ王家に仕える武芸者の務め、しかしあまりの人数の為、滅多にその機会がまわってくることはなく、たまたま相手が許婚、つまりはその腕前を認めたいなりであったのは不幸中の幸いと言える。
「鍔迫り合いの音に参じましたが、一体?」
「襲撃を受けた。目的はわからん。賊の得物は槍、長さは六尺五寸といったところだったか…」
先の戦いを反芻しながら、分かる範囲を答えると同時、やはり思考は有耶無耶になった戦いの行方へと至る。
それは自信過剰でも傲慢でもなく純然たる事実として、あのまま続いたならば五手か六手先で確実に斬っていた。
しかし…槍使いの動きには、この上なく研ぎ澄まされていながらも、パズルのピースが欠けているような違和感があった。
それが果たして何かもわからぬが、もし、彼奴が盤石であったならばどうなっていたことか。
「…そういえば…何かが無いとかどうとか………いや、まさかな」
なまじ自分が二刀流であるが故に浮かびかけた可能性、しかし少し思案して、かげろうは結局かぶりを振った。
「…ふぇ…っくしょい!!調書やらなんやら、適当に任せていいか?」
正しい規則に則れば、当事者としてこのままカミハルムイ城内の詰所に出頭しなければならないところだが、そこは勝手知ったる間柄だ。
うまいこと当事者不在で何とかしてもらおう。
「あ~、風呂に入りたい~。袖の先までびしょ濡…れ…」
そういえばさっきも血のにおいがするとかどうとか、まあそれは雰囲気的なものであろうが、兎にも角にも着物が肌に貼り付く不快感から一刻も早く解放されたい。
………いや待て、今日は何曜日だ?
ふと、持ち上げた袖から香る酒の匂い、そして背後から漂う怒気に気付いて、かげろうは青ざめる。
「今日は、木曜日ですよね」
これほどまでに心内をよまれたことは、立ち合いのさなかを含めても未だかつてない。
「うっ…あっ、ええと…」
いなりの妹オスシからの助言もあり、長期間の断酒でなく、出来ることからコツコツと、週に一度とした休肝日が…木曜だったか、水曜だったか、金曜だったか…
約束を守る気はあった、しかし、馴染みの酒屋から生原酒をわけてやると言われては、諸手を挙げるしかないではないか。
「いや、待て、これはだな…」
満面の笑みの仮面の下に、立派な角を生やした般若が見え隠れする。
「ほら、今は水曜日の27時というやつで…」
「ああ、その時間の呼び方…紛らわしいですよね。いつなのかハッキリ分からなくて…おかげで先日、前から気になっていた腕枕を買い損ねました。まったく、イライラしますよね」
見事に言葉の選択を間違えて、見る間に般若が具現化していく。
「そっ…!そうですね!でもその腕枕は再販売があるとか…良かったね!や、そうじゃなくてな!浴びただけで、飲んでない!飲んでないんだ!ほんとうに!!」
最初からその事実を伝えていれば、まだ幾分かマシな未来があったかもしれない。
しかしもはや覆水は盆に返らない。
「はぁ!?文字通り浴びるほどに飲んでおいて往生際の悪い!ほら、さっさと行きますよ!!」
「ああっ!取り調べは嫌だぁぁぁ!!」
非があるのはこちらではなくとも、市中での鍔迫り合いの当事者としてカミハルムイ城にて直接調書を取られるとなると、大変な時間と労力を伴う。
気持ち良く夜風を浴びながら、これから味わう酒の味に期待を膨らませていただけだというのに、何て日だ。
まだ日も明ける前から、憂鬱な1日の幕開けにしとしと涙を流し、いなりに引き摺られていくかげろうなのであった。
続く