まさにまな板の上の魚、いや鶏。
『ギィエエエェェェ!!!』
少女の手に握られた包丁が無慈悲に振り下ろされると同時、甲高い絶叫が迸った。
「もうっ!!やめて下さい母さま!」
「ああ、いや、すまんすまん」
実際、手元が狂いでもしたら大変だ。
アキバは素直に反省し、潰れんばかりに握り締めていたゴム製の人形を片付ける。
娘の頼みで下界へ食材の買い出しに赴いた折、露店の軒先に吊り下げられていたその鶏を象った人形は、何処か憎たらしいあの生臭神主の面影があり、更には握り締めれば滑稽な断末魔を響かせるともあって、アキバはついつい無駄な出費をしてしまった。
しかしその悲鳴を耳にするたび、すっと胸の内が晴れ渡るような爽快感は何物にも代えがたく、次の機会があれば箱単位で買い求め、寝室の傍らにずらり並べて吊り下げようと心に決めていた。
さて、仙人は霞を食して生きるという。
神たるアキバとりゅーへーはといえば、彼女らを祀る祭壇に捧げられた供物が霊体となってこの空の社に届き、それらをもっぱら糧としている。
供物である以上、不殺生の戒めから肉や魚、そしてにんにくなどの五辛と呼ばれる刺激の強い香味野菜は手に入らない。
それを不都合に感じることはないが、この度はりゅーへーがあの男の誕生日の祝いに、手料理を振る舞いたいと言い出したのだ。
いわゆる精進料理に喜ぶとも思えないし、そも、神ならざるものが常世の理から離れた食材を口にすれば、もれなくぽっくりお亡くなりである。
「いや……それも悪くなかったか?」
ふと口をついて本音が出てしまい、アキバは慌てて口を紡ぎ愛娘を見やる。
りゅーへーは一心不乱に調理に打ち込んでおり、邪な考えを気取られなかったことにほぅと胸を撫で下ろした。
「ええと……」
深めのフライパンに油をしき、切り出したばかりのとり胸肉、その肉の側から火を通し、程よく黄金色に染まり始めたら裏返して皮目を下に、ヘラで潰すように強く押し当ててカリッと焼き上げる。
一旦取り出したら、フライパンに残る鶏の旨味を吸った油に粗めの刻み玉ねぎ、細かく刻んだにんにくと生姜を投入、焦げそうになる度に水を注ぎ足し、飴色になるまで炒める。
粘りも出てきたところで、ドルワームで買い求めたコリアンダー、クミン、ターメリックと少量のタカノツメを加え、引き続き焦げ付かせぬようにひたすら炒める。
久しく嗅がぬ芳ばしいスパイスの香りにアキバの食欲も疼き始める折、よく熟れたびっくりトマトを複数個潰し入れ、足りない汁気を牛乳で調整する。
「最後の仕上げ、と」
したらば、避けておいた鶏肉を程よくカットし、カロリーに怯まずそこそこの量のバターと共に投入して馴染ませ、最後に塩で微調整を施せば、りゅーへー特製のバターチキンカレーの完成である。
「うむ、美味い」
娘が作ったという贔屓目は抜きにして、カレーは実に絶品であった。
「やった!」
母の太鼓判を受け取って、ようやくりゅーへーも匙を進める。
「うふふ、らぐっちょさまも、喜んでくれるかなぁ」らぐっちょという単語を耳にした途端、カレーの味わいの中に娘の成長を噛み締め、微笑みを浮かべていたアキバのこめかみに青筋が浮かぶ。
ほんの少し、そう、ほんの少しばかり、悪戯心を加えてもよかろう。
「しかしながら一つアドバイスをしておくとだな。殿方というものは、往々にしてカレーは辛いほど喜ぶものだ」
口元が邪悪に歪みそうになるのを必死に堪え、渾身の一芝居をうつ。
幸いにして、タカノツメの在庫は売りに出せるほどに潤沢である。
「ええ?ほんとに?母さま、らぐっちょさまには意地悪だからなぁ~」
「ぐっ……いやそこを否定はできんが……」
果たしてこの後、らぐっちょの食したカレーの辛さは如何ほどであったか。
それは真っ赤に腫れ上がった嘴だけが知っている。
~Happy Birthday~