森の奥。
赤い灯晶は、今夜もやわらかく脈打っている。
書庫は息をしている。
けれどその呼吸は、どこか浅い。
緑の髪の司書は、いつもの椅子に腰かけ、本をひらく
ページは白い。
そして、ゆっくりと文字が滲み出す。
「だいじょうぶ」
「ちゃんと笑えてる」
「まだ平気」
──次の瞬間。
文字が、崩れた。

インクが水に落ちたように、輪郭を失い、にじみ、絡まり合う。
読めない。
言葉なのに、言葉になっていない。
司書はまばたきをする。
もう一度、目を凝らす。
だがそこにあるのは、意味ではなく“揺れ”だった。
胸の奥で形を持たない感情。
怒りでも、悲しみでも、寂しさでもない。
名前をまだ与えられていないもの。
それは、“自分でも分かっていない感情”。
灯晶が、不安そうに揺れる。
司書は、そっとページに触れた。
すると指先が、かすかに震えた。
……冷たい。

これまで司書は、読むことができた。
どんな痛みも、どんな言い訳も、どんな強がりも。
けれど今夜は違う。
文字がほどけない。
光に変わらない。
ただ、重たく、沈んでいる。
司書は初めて、本を閉じようとした。
閉じられない。
本が、拒んでいるのではない。
“まだ読まれていない”と、知っているからだ。
読むだけでは、足りない夜。
司書は椅子から立ち上がる。
静かな書庫の奥へ、歩く。
赤い灯晶のひとつに、そっと額を寄せた。
「……教えて」
声に出すのは、初めてだった。
その瞬間、乱れていた文字が、ほんのわずかに形を持つ。
『わからない』
それだけ。

怒りでもない。
悲しみでもない。
ただ、“わからない”。
どうして苦しいのか。
どうして涙が出そうなのか。
何が欲しいのか。
わからない。
司書は、本を抱きしめる。
読むのではなく、抱く。
灯晶が強く揺れた。
揺れはやがて、あたたかな波になる。
読めなかった文字が、ひとつずつ、音を持ちはじめる
言葉ではない。
けれど、鼓動のようなもの。
司書は気づく。
名前がなくてもいい。
理解できなくてもいい。
まずは、そこにあると認めること。
それが、最初の灯り。

やがて、ページのにじみは消えないまま、淡く光を帯びる。
星にはならない。
今夜はまだ、星にはならない。
けれど書庫の天井に、小さな赤い光が残る。
未完成の灯り。
それでいい。
読むことは、救うこと。
けれど、寄り添うことは、もっと深い。
声にならない手紙は、まだ途中だ。
だから本は閉じない。
今夜、きみが理由もなく息苦しくなったなら、
それは壊れているからじゃない。
ただ、まだ名前がついていないだけ。
森の奥で、司書は待っている。
読むだけでは足りない夜もあると、
知ったから。
そして書庫は、今夜は閉じない。
次に浮かぶ一文字を、
一緒に待つために。